第三節 神社祭礼時及び堂宇建立時における座席の争い

972 ~ 975
 神社の祭礼時や、堂宇を建立した際の座席の位置の問題は、当時の人達にとっては実に重大な問題であり、現代のわれわれには想像も及ばない深い関心事であったようである。
 それは門閥や家柄が村の生活の中心であり、これを誇示することによって、他人よりは幾分でも自分の地位を優位におきたいと願う願望の姿であり、われわれには到底考えも及ばない当時の社会機構の様想を知ることができるのである。次に掲げる「舟山村神社祭礼時の座席の争い」は、前に記した寺形郷温泉大明神の祭礼に、他の村々と分れてしまった舟山村が、また村内の中で座席についての争いを起しているのである。
 この問題の起った寛政四年(一七九二)、当時の舟山村は、下坪の家数が五軒、上、中坪も大体同じ程度で、全体でわずか十四~五軒程度の小さい村であった。このような小さな村の中にも矢張りいろいろと問題はあったのである。
   乍恐以書付奉願上候事
 
一 舟山村之儀者古来より三坪ニ相分リ長之者三人ニ御座候私儀先祖内蔵と申者より代々前坪長惣領筋ニ御座候而村内出合之節茂座頭仕勿論御用向之義ニ茂百姓代印形等茂差上置候者ニ御座候 倉之丞、六兵衛と申者両人は私家より相分り承応二巳年(一六五三)迄三軒ニ御座候処宝永五子年(一七〇八)御検地之時分より五軒と相分り兼右ヱ門、幸右ヱ門と申者相続仕罷在候

右ニ付私共鎮守寺方村湯泉大明神祭礼九月十八日ニ御座候而前々より祭礼相済神酒頂裁(戴)之節は神主方より私初盃請来り候故当年茂右之通相心得罷出候処六兵衛申候者手前家前坪地惣領ニ候間初盃は私江は請申間敷旨難題申掛其上甚雑言等申相済不申候故神主養田大和方ニ而盃預り罷成神酒相開不申候 尤先祖内蔵より以来迂(遷)宮棟札等ニ茂相印置候義者神主始寺方村長之者共迄存居候儀ニ御座候得者彼者共江御尋被下置候者旧例之義早速相分申候儀ニ御座候此段偏ニ御願申上候御事
(中略)
右祭礼神酒開私初盃之儀御吟味之上前例之通何卒御慈悲を以被 仰付被下置候者難有仕合奉存候委細之儀者口上を以可申上候以上

                                舟山村
       寛政四年(一七九二)                願人源左ヱ門
                                同村
                                  五人組
                                同村
                                 組頭 伝次郎
        御役所様
(富池印南覚四郎家文書)

 
 問題は湯泉神社祭礼(九月十八日)の際、伝左衛門の家が寺形村と分離する前から、湯泉神社祭礼の時には舟山村代表(惣領)として着座していたのに、この際の祭に六兵衛が前坪惣領は自分の家だから最上席に座るのが当然だと言い出したことに始まる。
 これに対して伝左衛門は「それは違う。わが家こそ惣領の家で、六兵衛の家は自分の家の分家である。その証拠には寺形郷温泉大明神の祭礼の時は、代々自分の家が上座におり、そのことは寺形村の人達も皆知っていることで、明白な事実である。であるから初盃は是非私に下さるように仰せつけて戴きたい。」と大田原藩へ訴え出たものである。
 神主大和守(叢泉翁)も伝左衛門の言い分が正しいことは、神主家の記録(岩瀬家文書)で明白であることは十分承知していたことと思うが、今後の紛争等も考えてか、黙って盃を預かったものであろう。
 六兵衛の家は、当時財制的にもなかなか豊かであり、それに相当なやり手であったためこのような問題をおこしたと見る節もあり、当時組頭は伝次郎であったが、その後六兵衛の家が組頭となり、伝左衛門の家が名主役をつとめている。以上の点から考えると、この件は神主大和守などの仲裁で円満な妥協が成立し伝左衛門が初盃を受けることになったのではなかろうか。