木曽畑中村は、中世期には那須氏の支配下にあり、寛永十九年(一六四二)七月二十五日、那須氏の没落によって江戸幕府直轄地となった村である。従って村の鎮守の祭礼は寺形村の神主、養田氏によって司祭されていた。
当時の村戸数は明確ではないが、村内には添田、人見、養田、高久、室井氏等の名がみえ、その中で室井氏の入植は他の四氏よりも後に移り住んだようにみえ、従って村内は前記四氏によって維持されていたようである。
右のうち高久氏一門は他家にくらべて家数こそ少ないが前々からの勢力家であったようで、地頭職などをつとめた家柄である。
これに対し一門の家も多く、土着した経歴も古いと思われる添田氏、人見氏等は、高久氏の地頭としての地位を快よく思わなかったことが、この問題を起す原因となったように思われるのである。(高久氏が相当な勢力家であったことは、現在でも土地の古老に言い伝えられている。)
このような両者の関係から高久氏は他家一門とはほとんど絶縁状態となり、神社祭例不参加という形でこれが表面化し、文化四年(一八〇七)の鎮守社の祭例には、高久氏だけでこれを行なわなければならない有様となってしまった。この有様を心配した隣村竹之内村の名主新蔵(新兵衛)が仲に立ち、両者の和合をすすめた結果、ようやく話し合いが成立し、神社の祭例にも全員が出席するようになったものが次の一札である。
差出申一札 差出申一札
一 去ル文化四卯年当村鎮守湯泉祭礼之儀ニ付別帳惣氏子相離レ高久氏斗ニ而年々祭礼仕居候処此度取扱人竹之内村新蔵罷出双方熟談納得之上一統出席仕年々祭礼修覆等無怠慢可仕候趣意左之通
一 祭礼当番之義者年々氏子順当無懈怠可相勤候事
一 御神酒盃之儀者左之上席ニ而庄左衛門頂戴可仕次ニ当番之者次ニ来当之者頂戴可仕候右之上席ハ地頭ヲ三人ニ而隔年ニ頂戴可仕候其外者席付次第順盃且又両神主様より左右之座江隔年ニ御順盃被下候様相極候右地頭ラ之外名主役相勤候者有之節ハ庄左衛門次席ニ而頂戴可仕候事
一 社地境内者氏子一統相談之上売木其外之儀庄左衛門猶又地頭ラ之者ニ而取斗イが間敷儀仕間敷 惣氏子相談之上取斗可申候事
一 修覆遷宮之節者両神主様御立会之上御修行被下神酒盃順盃祭礼之節同様ニ候事
一 此後高久氏半左衛門式相立候節者名主次席ニ而神酒頂戴仕り其外末家之者相立候共並方ニ而違乱無之候事
右相定置候上者此度より以前の諸書付等何方より差出候共取用申間敷候此以後故障相発り氏子ニ而我儘之筋有之節ハ両神主様并ニ扱人立合之上取分ケ候様相極候然ル上ハ向後右鎮守之儀ニ付聊違乱仕間敷候為後日連印仕置候条依而如件
中田原大宮司 佐藤大隅守印
両神主 寺形村大神主 養田主税亮印
文政三庚辰年九月廿八日
木曽畑中村
地頭 高久庄左衛門
同
当名主 添田太郎右衛門
同
人見源右衛門
同
添田伊右衛門
順序次第不同
添田新右衛門
添田金蔵
添田忠兵衛
人見茂兵衛
人見勝蔵
養田久右衛門
竹之内村
扱人 荒井新兵衛
(富池 岩瀬家文書)
この文書によると高久氏は村内にあっての従来からの勢力をほしいままにし、神社境内内の立木なども他家の者と相談することもなく勝手に売払っていたのではなかろうか。和談の結果はこの横暴を抑え、祭礼時の座席も従来のようにいつも最上席にあることに制限を加え、三人の地頭が交替で盃を受けるよう配慮されている。矢張り時代の流れとでもいうべきか、多数の村人の意志の前には、高久氏も屈伏しなければならなくなったようである。
このように小さな村の中にさえも、新しい時代への変革が少しづつあらわれてきているようである。