これらの堂宇の中には現存するものも少々くないが、今ではただ地名としてのみ残っているもの、あるいは文書の記録によって知ることができる程度になったものも少なくはない。それはこれらの村々が長い年月の間に支配者が変ったり、あるいは同一の支配者であってもその所属の境内地内に何らかの問題がおこったり、または村の組織そのものに変動があるなど、いろいろな様相によって建立されていた堂宇に変化の生じたことがあったようである。
ここに記すものは大田原市富池地内の寺形村と舟山村の社地と堂宇境内についての争である。この争いのおこりを溯って考えてみると、そこにはこの地の中世期を考えさせられる幾つかの問題のあることに気付くのである。
それは荘園制末期の頃まで溯って考えねばならない重要な問題であるかも知れない。
この地は室町末期の頃には現在の富池全域及び市野沢の滝地内を含めて寺形郷といい、舟山、不宿(後の吉際、竹之内、松原の三村)前田、橋本、滝、屋婦内(藪内)道宗内、大道内の八つの村による郷村組織をもっていたところで、その郷村の総合鎮守社が寺形郷の湯泉大明神であり、同一境内に観音堂も祀ってあるという神仏習合の社であった。
寺形郷湯泉大明神の創建は文亀三年(一五〇三)九月十六日であるといわれ、以後四百七十年間宮座慣行のあった所である。そのため場所も登谷(頭屋)(とや)といっている。次の文献によってこれを解明したいと思う。
寺形郷
前田 藤田大蔵
橋本 後藤丹後
不宿 相馬伊賀
滝 相馬和泉
上棟鎮守湯泉大明神 神主 養田筑後
文亀三発亥(一五〇三)九月十六日 大道内 松本玄蕃
舟山 印南内蔵
道宗内 鹿沼藤六郎
屋婦内 荒井加茂
舟山 人見弥右衛門
次遷宮
大永五乙酉(一五二五)年四月十一日
神主 養田越後
〃
天文十六丁未年(一五四七)十一月十五日
神主 養田若狭
〃
天正四丙子年(一五七六)九月廿八日
神主 養田若狭
〃
慶長四己亥年(一五九九)三月二十七日
神主 養田治部
〃
元和七辛酉年(一六二一)九月廿一日
神主 養田庄太夫
〃
正保元甲申歳(一六四四)十月十一日
神主 養田周防守
〃
寛文四甲辰年(一六六四)十一月二十八日
神主 養田周防守
〃
貞享元甲子年(一六八四)四月朔日
神主 養田石見守
〃
元禄十六癸未年(一七〇三)十月二十八日
神主 養田石見守
〃
享保十二丁未年(一七二七)十月十二日
神主 養田隠岐守
左壱 相馬藤右衛門
二 相馬三左衛門
三 後藤治郎左衛門
四 藤田源兵衛
右壱 松本権三郎
二 印南伝之丞
三 鹿沼次右衛門
四 荒井仁右衛門
五 人見弥右衛門
次遷宮 藤田源兵衛
後藤次郎左衛門
相馬三左衛門
相馬藤右衛門
延享五戊辰年(一七四八)五月十一日 神主 養田石見守
松本与右衛門
印南伝之丞
鹿沼治右衛門
荒井綱市
人見甚右衛門
次遷宮
前田 藤田源兵衛
橋本 後藤次郎右衛門
不宿 相馬久右衛門
滝 相馬藤右衛門
明和三丙戌年(一七六六)十一月六日 神主 養田隠岐守
大道内 松本与右衛門
舟山
道宗内 鹿沼次右衛門
舟山
屋婦内 荒井喜与次郎
次遷宮
藤田平右衛門
後藤重兵衛
相馬権右衛門
相馬藤右衛門
天明五乙巳年(一七八五)三月朔日 養田主馬
松本与右衛門
鹿沼与五左衛門
荒井弥市
万年神事控
野州那須郡寺形邨(村)鎮守同船山村
境内 南北四十間 東西弐拾間余
御除地 壱反七畝十八歩
湯泉大明神御祭礼年々 九月十九日寺形村
十八日船山村
長氏子寺形村七人 船山村弐人
文亀三癸亥年(一五〇三)九月十六日遷宮 養田筑後
大永五乙酉年(一五二五)四月十一日同 養田越後
天文十六丁未年(一五四七)十一月十六日同 養田若狭
天正四丙子年(一五七六)九月廿八日同 右同断
是迄四枚社内より被盗不相知
慶長四己亥年(一五九九)三月廿七日同 養田治部
元和七辛酉年(一六二一)九月廿一日同 養田庄太夫
正保元甲申年(一六四四)十月十一日同 養田周防守
寛文四甲辰年(一六六四)十一月廿八日同 右同断
貞享元甲子年(一六八四)四月朔日同 養田石見守
元禄十六癸未年(一七〇三)十月廿八日同 同断
享保十二丁未年(一七二七)十月廿八日同 養田穏岐守
延享五戊辰年(一七四八)五月十一日同 同断
明和三丙戌年(一七六六)十一月六日同 同断
安永八己亥年(一七七九)十月十二日同 養田大和守
天明五乙巳年(一七八五)八月廿一日同 同断
寛政六甲寅年(一七九四)八月廿一日同 同断
文化九壬申年(一八一二)八月十三日同 養田主税亮
天保二辛卯年(一八三一)八月十二日同 同断
嘉永三己酉年(一八五〇)三月十一日同
万延元年(一八六〇)九月十三日同
(岩瀬家文書)
以上の二文書を見ると次のことに気づくのである。
1、この神社祭礼時の座席は家柄により一定しており、それらの家柄を長氏子と称したこと。
2、延享五年祭礼時までは船山村も同席していたが、明和三年以降は他と別個に祭礼を行なったこと。すなわち他は九月十九日に、船山村は九月十八日に執行している。
なお第二の文書には記されてはいないが、江戸時代末期頃までの祭例時の座席には変化はなかったのではないかと思われる。
では二百六十年間も一諸に祭例を執行してきた船山村が他村と分離しなければならないまでに感情がもつれてしまったのであろうか。
この地はかつては日光二荒山輪王寺の寺領であり、後鎌倉幕府の勃興によってその領地は二分され、東部一帯はそのまま寺領として残されたが、西部の地区は幕府領となってしまったいわゆる下地中分である。寺領として残された東部地区が寺形でありそれが今日でも一部地名として残されているゆえんである。
このような東西の分離によって、それまで同一郷村組織を持っていた村々が切り離されることにはなったが、祭例などは以前からの仕来りによって祭例は行われていたようである。では郷村組織内の村内がなぜ前に記したような争を起さなければならなかったのであろうか。それは鎌倉時代初期の頃この地の支配者が同一人だけではなかったことに由来するものではないだろうか、異なった支配者に統治されることはいつの時代にも両者間に大きな溝が生じたことは歴史の証するところであり、那須の地の大半が那須家の所領であったとはいい、統治の行届かない幾つかの所領のあつたことも考えられ、さらに下って明応三年(一四九四)大田原氏の祖康清が武蔵国阿保よりこの地に来たり、大俵堀ノ内(この考え方にもまだ定説はない)に居を定め館を築いて漸次付近の地を征服していった。初期の征服地は荒井、町島、戸野内、岡、今泉、そして船山地域である。その後永正年間期には前記寺形郷一円も征服してしまった。寺形郷人はその後永く大田原氏を憎み、いつの日にかは再び元の寺形郷の勢力を取り戻そうと計ったが、ついにそれを果たさずにしまっている。それを証するものとして、付近の水源地及び神官屋敷、重要建物敷地はすべて寺形村として残されてあり、また寺形郷代表と見なされる神官家(現岩瀬家)には一子相伝の秘事として言い伝えられてあった。
このように舟山村は大田原氏に対しては、寺形郷の他村に比して先に属した場所、このため優越意識を持ち、秀吉により検地(大閤検地)の際も現富池全域の村々〔船山、竹野内、吉際、松原、寺形(寺方)〕は船山村として記されている。
一、弐百参拾七石ハ ふな山の内
一、四百八拾壱石三斗六升 ふな山の内
(伊藤安雄氏蔵大閤様御朱印下野国那須郡の内知行方目録より)
右の内弐百参拾七石は後の船山村、竹野内村、吉際村、松原村の総石高と一致し、四百八拾壱石三斗六升は寺形村の石高と一致していて、これより現富池地内は当時船山と称したことは明らかである。
また次の文献がある。
定
一永楽 壱貫六百参拾七文
一同 弐百壱文 当郷
一同 六貫九百五拾六文 西野原
一同 壱貫弐百六文 舟山之内
右之通可令知行者也 松原村
延宝卯ノ三年(一六七五)極月十三日
山城高清(花押) 阿久津儀太夫殿
(阿久津家文書)
これは江戸時代初期には大田原藩では家臣達に所遇に応じ一定の土地を知行所として給付したものの一つで、後期には石高給付を行なっている。なお山城高清とは大田原氏十七代領主、山城守高清のこと、阿久津儀太夫は家老格の重臣である。
また水源地利用についても、吉際村、竹野内村、寺形村に発源の水も他に先んじて利用する権利を保持し、これは明治初期まで続けられていた。
このように船山村の人達は江戸時代初期より中期にかけては他村のものに対して優越感を持っていたにもかかわらず、湯泉神社祭礼時の座席は以前のそのままであることに不満を持っていたが、他と異なり古来からの定めであることと、寺形郷の人達の大田原氏に対する反感の内在と相まってついに許されず、ここに堂宇敷地所属をめぐっての争いとして表面化した。
争いの結果は次の文書に見られるように、寺形村の申すところ利運(道理)なりとして、ついに舟山村は敗訴となってしまった。
申渡覚
船山村観音堂修覆ニ付寺方村と諍論之趣双方召出対決令吟味処舟山村もの共申候は観音の古境内ハ寺方村湯泉社地之内ニ有之尤当分観音堂地之かこひ杉も勝手ニ仕来候 依之此度古境内ニ堂建作存立ニ而相奉願候段申之寺方村之もの共答候者私共鎮守湯泉社地之儀ハ享保十二未年船山村と出入仕候節寺方村理運ニ被仰付社地何連より茂相構無御座候 則其節之御載許御書付所持仕由差出之先載許之趣相違無之事ニ候得共場所入組候儀茂難計ニ付代官岡文右衛門、徒目付室井常右衛門指出遂見分処湯泉社地之内ニ観音堂跡と相見候茂無之勿論社地かこひハ土居をつき並杉植置観音境内紛敷事少も無之候 依船山村申分相違ニ付不相立候 観音境内ハ東西エ四間南北へ九間の場所ニ有之別段ニ候得ハ湯泉社地江曽而相構申間敷候 寺形村之儀ハ差出候絵面之通社地相違無之候ニ付理運ニ申付候 仍為後証双方江書付相渡置者也
宝暦三癸酉年五月 数右衛門 正紀
出府無加印 四郎左衛門
小兵衛
船山村
組頭源七
善右ヱ門
甚左ヱ門
孫右ヱ門
(富池 岩瀬家文書)
このために船山村は、他の村の者と折合いがつかず、延享五年(一七四八)の遷宮祭例の際には座に列していたが、明和三年(一七六六)の遷宮式には列席を断わる始末となった。これはおそらく宝暦三年(一七五三)の敗訴からのことではないだろうか。従ってそれから後は船山村は他の村々とは別の日に神社の祭例を行なっており、他村の者が九月十九日であるのに対して、一日早く九月十八日に行なっている点も面白いことである。
しかもこれは明治九年(一八七六)まで続いている。明治六年(一八七三)時の政府は全国の小村の合併統合をすすめ、このすすめによって吉際村 竹之内村、松原村 寺形村の四か村が明治六年(一八七三)八月合併して富池村となった際、船山村に合併をすすめた岩瀬響のすすめにも応ぜず、明治九年(一八七六)二月十六日になってようやく富池村と合併したような状態で、この時から神社の祭例も他村と一諸に行うようになった。
なおこの争いの時の観音堂は明治の末頃廃堂となり、堂内に安置されていた観音仏は富池松原の虚空蔵堂内に祀られてあり、それには次のように記されている、
仏師 下湯津上村 木曽氏武元作之
願主 西念
木曽武元は御承知のように、梅ケ平の大金重貞の著した「那須記」に、書き残したと思われる処を補足するという意味で、享保十八年(一七三三)「那須拾遺記」十五巻を著した方であり、単に文筆にすぐれていたというだけでなく仏師木曽武元と名乗っているところからみると仏道にもすぐれ、また彫刻の技にもすぐれていた方であったように思われるのである。
以上が寺形村と舟山村との争の概要であるが、この紛争の中にある寺形郷が、日光輪王寺の所領であったという点や、中分線の問題については一部疑問とするものもある。例えば、高柳光寿氏竹内理三氏編の「日本史辞典」には、上那須、下那須とも皇室領となっており、輪王寺の社領であるとの文献を見出すことはできないのである、また少し下って文治の頃(一一八五~一一九〇)ともなると、那須の地は少なくとも那須家の所領として、鎌倉幕府から認められた地であり、その中に皇室と関係を持つ天台系輪王寺領があったとは考えられないとの説である。この真偽の問題をここで論じようとは思わないが、郷土史とはかくもむずかしい学問であることを改めてしみじみと思うのである。