関街道については、黒羽町の文化財調査委員長の蓮見長氏は、その論文、「下野の文化財」第五号「関街道」において、次のように述べている。
京都より奥州地方に通ずる街道に、下野と岩代との国境に白河の関、東海岸の常陸と岩代の国境に勿来(なこそ)関の二関があった。勿来は「来るな」の意味で、えぞ(アイヌ)が侵入することを防ぎ止める意味であるが、専ら通行人をも検査して通過させた。此の二関は承和二年(八三五)十二月三日の太政官符が、類聚三代格に載せてある。即ち、(漢文であるが仮名交り文に改めて記す。
大政官符、応(まさ)に長門国の勘過(取り検べ)に准ずべき事、白河、菊多両関事
右陸奥の国解を得と称す。旧記を検するに関を置いて以来、今に四百余歳、越度(おちど)有るに至らば、重ねて以て罰を決す。謹んで格律(国の法律)を検し件剗無ければ即ち犯す所有りと雖も、輙勘すべからず。而して国の俘囚多数任意に出入す。若し勘過せずんば、何を以て固と為さん。加うるに官を進むる雑物触色数有るを以て、商旅の輩、窃に買って将に去らんとす。勘過の事、一に長門に同じくせんことを望み請う。謹んで官裁者を請う。勅を奉じて依って請う。
右陸奥の国解を得と称す。旧記を検するに関を置いて以来、今に四百余歳、越度(おちど)有るに至らば、重ねて以て罰を決す。謹んで格律(国の法律)を検し件剗無ければ即ち犯す所有りと雖も、輙勘すべからず。而して国の俘囚多数任意に出入す。若し勘過せずんば、何を以て固と為さん。加うるに官を進むる雑物触色数有るを以て、商旅の輩、窃に買って将に去らんとす。勘過の事、一に長門に同じくせんことを望み請う。謹んで官裁者を請う。勅を奉じて依って請う。
承和二年(八三五)十二月三日
承和二年は両関が新設されてから四百余年になるとあれば、即ち允恭天皇(四一二~四五三)の頃で、今より一千五百余年前になる。
(中略) その通路は、京都を起点として、下野を通過したのは次のようである。(延喜式)群馬県大田市附近で下野に入り、
足利 (足利市附近)
三鴨(みかも) (元下都賀郡岩舟村)
(町村合併以前の町村名がつかわれているので「元」の字をそう入した)
田郡(たごう) (元下都賀郡明治村、後世の多功宿)
衣川(きぬがわ) (元塩谷郡熟田村字八方口)
磐上(いわがみ) (那須郡湯津上村)
黒川 (今日の芦野ではなく、夫婦岩の対岸。元鍋掛村黒川の右岸に黒川の地があるが、それより下流であろう)
此所より伊王野の南の地、下伊王野より、現在水田の地を通って、蓑沢(みのざわ)、大畑、沓石に出て岩代の旗宿に入るので、この国境に境の明神がある。
即ち塩谷郡元新田(熟田村)より那須郡元荒川村鴻野山から小白井にで、小白井から東西に分れ、その一つは元下江川村川井、志鳥、小川町片平に出て北上し、同町の三輪、恩田、梅曽(那須官衙跡の横)浄法寺で箒川を渡り、湯津上村佐良土西の原を経て国造の碑の近くのかま場(かまえ場、構え場)から南金丸、余瀬に出、それから以北は一本道で、蜂巣、檜木沢、寒井を経、那珂川を渡り、元伊王野稲沢、沓掛から伊王野、簑沢、大畑、沓石を過ぎて、元福島県古蹟村旗宿に達する。旗宿が即ち白河の関のあった所である。
(一説に箒川を渡って佐良土西の原から後は蛭田方面を通ったとなす者もあるが、或は此の方面を通ったとする説が正しいとするならば、それは東の国造の碑の近くを通ったよりも後のことではなかろうか。)
小白井から西に分れて中金丸に達する道は、小白井より北上して、元上江川村鹿子畑に出て、金枝より軍沢、小郷野、上芳井より福原八幡宮の北方を通り(小郷野から福原までは道形が残っている)箒川を渡って湯津上村片府田の北方に出る。片府田からは市内倉骨、鹿畑を通り、南金丸で前記の道と合して余瀬に向ったようである。
足利 (足利市附近)
三鴨(みかも) (元下都賀郡岩舟村)
(町村合併以前の町村名がつかわれているので「元」の字をそう入した)
田郡(たごう) (元下都賀郡明治村、後世の多功宿)
衣川(きぬがわ) (元塩谷郡熟田村字八方口)
磐上(いわがみ) (那須郡湯津上村)
黒川 (今日の芦野ではなく、夫婦岩の対岸。元鍋掛村黒川の右岸に黒川の地があるが、それより下流であろう)
此所より伊王野の南の地、下伊王野より、現在水田の地を通って、蓑沢(みのざわ)、大畑、沓石に出て岩代の旗宿に入るので、この国境に境の明神がある。
即ち塩谷郡元新田(熟田村)より那須郡元荒川村鴻野山から小白井にで、小白井から東西に分れ、その一つは元下江川村川井、志鳥、小川町片平に出て北上し、同町の三輪、恩田、梅曽(那須官衙跡の横)浄法寺で箒川を渡り、湯津上村佐良土西の原を経て国造の碑の近くのかま場(かまえ場、構え場)から南金丸、余瀬に出、それから以北は一本道で、蜂巣、檜木沢、寒井を経、那珂川を渡り、元伊王野稲沢、沓掛から伊王野、簑沢、大畑、沓石を過ぎて、元福島県古蹟村旗宿に達する。旗宿が即ち白河の関のあった所である。
(一説に箒川を渡って佐良土西の原から後は蛭田方面を通ったとなす者もあるが、或は此の方面を通ったとする説が正しいとするならば、それは東の国造の碑の近くを通ったよりも後のことではなかろうか。)
小白井から西に分れて中金丸に達する道は、小白井より北上して、元上江川村鹿子畑に出て、金枝より軍沢、小郷野、上芳井より福原八幡宮の北方を通り(小郷野から福原までは道形が残っている)箒川を渡って湯津上村片府田の北方に出る。片府田からは市内倉骨、鹿畑を通り、南金丸で前記の道と合して余瀬に向ったようである。
以上が蓮見氏の説であるが、蛭田あたりの人の説を聞くと箒川を渡ったのは、浄法寺柳林から蛭田に出た説が正しい。と言う者もあり、あるいはどちらも正しい説で、開発が進むにつれて幾本かの道ができ、その道も初めは南の方を通ったものが次第に北に移動したとも考えられるのではないだろうか。
別紙主要道路地図は参考のために提示したものであり、一応線を以て道路を標示してはいるが、このこと自体に無理があり、道形の残っている所は別として、古代や中世の道を表示することなどは到底困難なことであり、したがってこの道路地図も「おおよその所を線であらわしたものである」との了解の上で見て戴きたい。
古代律令制下における交通は、地方官吏の往還や、国家に対する貢納物輸送のための農民の往還が主たるものであった。そして中世までの物資の陸上輸送の手段は、人や馬が中心であり、『延喜式』規定によれば、当時、馬一疋の積載量は、絹七十疋・絁(あらぎぬ)五十疋・糸三百絇・綿三百屯・調布三十端・庸布四十段・銅一百斤・鐵(たがね)三十廷・鍬七十口である。
これによってみれば以上の荷積量は、大体一百斤すなわち現在の約六十キログラム前後と解される。事実糸絇(くつかざり)、綿の屯はいずれも三分一斤であり、従って糸三百絇・綿三百屯は共に百斤である。また鐡の一廷は三・三斤であるから、同じく鐵三十廷はほぼ百斤に相当する。以上のように重量基準の物貨が、すべて軌を一にして百斤であるから、疋・端・段など長さを表示した絹・絁・調布・庸布や、そのほか数量表示の鍬七十口など、いずれも同じく大体百斤=六十キログラムと解して誤りないであろう。
荘園制が確立した十一世紀――十三世紀の交通も律令制下と大差はないが、荘園管理のための荘官の往還や、年貢の収納・輸送のために要する人と馬の数はかなり増大したことは確かである。例えば嘉元元年(一三〇三)摂関家領下野塩谷荘の「年貢運上送文」によれば、年貢の総量は八丈絹二百五十疋であるが、実際は上品・染物・白布などに代替され、これを夫領・兵士二人、夫二人、馬二疋をもって輸送していることが記されている。その後、徳治・正和(一三〇六――一三一七)のころ、陸奥からはるばる京都まで、直布六百五十七段が夫領・兵士の差配下に、数十人によって輸送されている。(新渡戸文書)
なお平安末藤原基衡が毛越寺(もうつうじ)本尊の制作者運慶に贈った次の如き供物が、東山道・東海道の両路を経て陸送されている。すなわち、円金百両・鷲羽百尻・七間々中径ノ水豹皮六十余枚・安達絹千疋・希婦細布二千端・糠部駿馬五十疋・白布三千端・信夫毛地摺千端のほか山海の珍物が、三年間片時も絶えることがなかったという。(「吾妻鏡」文治五年(一一八九)九月一七日)
これらの例によるまでもなく、古代・中世における交通量は、今日我々の考えている以上に多かったのではないだろうか。ことに古代中末期、関東・東北地方の開拓が次第に進歩し、人口が増加しつつあったので、これに伴ってこれらの地方と中央との交通量が漸増していったのではないかと思われる。そして、古代末すでに一種の交通聚落が誕生しつつあったのである。黒羽町余瀬が往古粟野宿といったといわれ、また余瀬に続く金丸の地も昔野沢宿といったと伝えられているがうなずけることである。
このように中央と東国との交通が頻繁になるにつれて、中央の文化が次第に移ってきて北関東に位する下野――那須地方にもいよいよ文化の華が咲くこととなったのである。
東山道行政圏諸国の官吏・物資は、すべて東山道によらなければならない掟があったが、東山道はけわしい山路が多く、特に冬季は寒さがきびしいため歩行が極めて困難であった。それで、東山道諸国の官吏の中には、平坦でしかも温暖な東海道をえらびたいという者が少なくなかった。「延喜式」制定当時の延喜十四年(九一四)太政官では、元来東山道を通行すべき国司らが、枉道(道をかえて任地に赴くこと)の官符を申請して東海道駿河を経由した結果、駿河農民の負担する逓送の役が過重となり、逃亡する駅子が続出したので、東山道国司の交通路の変更を禁止した(別〓宣抄)。東山道のうち枉道の官符を申請して東海道駿河を経由する国司は大体上野・下野・陸奥・出羽の諸国で、このころすでに「延喜式」制定当時の、東山道・東海道の式の規定は、交通上有名無実化しつつあったのである。
天禄二年(九七一)出羽守橘時舒はその赴任に当って、前例に准じて官符を申請し、東海道を経由しようとし、長徳元年(九九五)にも出羽秋田城介信頼またその赴任に際し、東海道の通行を申請して聴許されている(「権記」長徳元年(九九五)十月二日)。
このように出羽など東山道の官吏が、東山道を避けて続々東海道を経由するようになり、とくに陸奥・出羽などの官吏が、法令を犯して東海道を通行するのは自然の趨勢であった。
中世鎌倉幕府の成立以来、京都・鎌倉間の交通量が急激に上昇し、東海道の道路・宿泊機関が整備されると、東海道の吸引力はますます大となり、東山道は裏街道としていよいよかえりみられなくなった。
しかしながら東山道のうちでも、信濃に近接した上野・下野の一部と京畿との交通には、依然として東山道が便利で利用された。
東山道の交通量の衰退と軌を一にして、関街道筋の宿駅もさびれていったことは事実であった。
関街道にまつわる伝説はすこぶる多い。まず市内南金丸所在の金丸八幡宮(那須神社)に例をひいてみることとしよう。金丸八幡宮の成立については別に説くこととして、同神社社伝について述べれば、延暦年中(七八二~八〇六)坂上田村麿が蝦夷征討の途次、この社に戦捷を祈願したといい、前九年、後三年の両役に源頼義・義家が戦捷を祈願し、賊徒平定の暁には報騫のため社殿を造営せんとか伝えられている。義家が果たして往還とも、この街道を通ったものかどうかは知るべくもなく、現に常陸、磐城境の勿来の関には、義家がここで詠じたという。
吹く風を勿来の関と思えども道もせに 散る山桜花
という歌も残されている。ただこの境内の桜の古木が、義家の家来首藤権守資家が、義家の命によって植えたという伝説や那須家にまつわる史実、伝説が語り伝えられているが、八幡宮の信仰が鎌倉武士の間にひろがっていった鎌倉期から室町期にかけて、那須氏とは深いつながりのあったことを物語るものであるように思う。