夜はほのぼのと白沢の
早や氏家に喜連川
花の佐久山あとに見て
可愛いお方に大田原
ちょいと腰を鍋掛て
那珂川越して越堀と
二十三坂七曲り
皆さん芦野まめにして
あちらこちらと寄居村
白坂八丁手前の
滝の明神願かけて
奥州白河蔵登町辺に
世帯持つ気にならしゃんせ。
江戸時代の五街道の一つ奥州街道筋の宿駅を詠み込んだ道中唄である。奥州街道は、またの名を奥州道中という。江戸の日本橋を起点にして千住、古河、宇都宮、大田原、白河、福島、仙台、盛岡、青森までの六十九次を数えるのが一般的であるが、これは広義の意味での俗称のようである。千住より草加、越ケ谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋、中田、古河、野木、間々田、小山、新田、小金井、石橋、雀宮 宇都宮までの十七宿駅が日光街道(道中)を兼ねるので、厳密な意味での奥州道中とは、宇都宮以北の俚謡、道中唄にある白河までの十宿駅までと考える方が妥当のようである。
五街道とは江戸幕府が平和維持、参勤交代の便利を目的とした当時としてはもっとも交通の盛んな、整備された主要陸上交通路であった。
この五街道は江戸日本橋を起点として、
東海道は品川より草津まで、
中仙道は板橋より守山まで、
奥州道中は白沢より白河まで
甲州道中は内藤新宿より下諏訪まで、
日光道中は千住より鉢石まで、である。
これらの一級国道ともいうべき幹線に対して、二級国道に類する支流があり、これらを脇街道或は脇往還ともいった。江戸幕府にとって五街道はもっとも重要な街道であったので、この道路の管理は之に付随する道路を含めて幕府の道中奉行の管理、支配するところであった、道中奉行は万治二年(一六五九)大目付の兼任が最初で、元禄十二年(一六九九)には勘定奉行が兼務、それ以後は両方から一人づつ兼帯するのが通例であったようである。
他の街道は、その地の諸藩の領主が管轄して五街道に準ずる取扱とした。
日本の歴史の中で道路の整備に関する史実はあまり見当らないが、初めてそれらしいものが見られるのが織田信長である。信長は天正二年(一五七四)四人の道奉行を任命して、道路の改良、交通制度の確保などにあたらせ、大道は道中三間半(六・四M)小路は三間(五・五M)と定め道路の曲りをとり、石を敷き、両側には松、柳などの並木を植えさせた。
又、これまで六町を一里としていたものを、一里を三十六町に改めさせたのも信長であり、これは現在でもまだ使用されている。
一里塚が始めて築かれたのも信長の時代であるとの説もある。
信長の交通政策はやがて秀吉に受け継がれ、国家統一につれて飛脚、伝馬の制度など交通も大規模なものへと発展するようになるのであるが、この信長の始めた全国の道路整備事業を引継いだ江戸幕府は、江戸を中心とした五街道の整備を本格的に着手したのである。
天下の大道、街道の道中は、徳川家康百ケ条中に、大街道は道巾六間(一一M)小街道は三間(五・五M)横道、馬道二間(三・六M)歩行道一間(一・八M)作馬道三尺(一・〇M)と記されている。路面は一寸(三・〇cm)ほどの厚さに小石、砂利を敷き、踏み固めた上に砂をまいた。
急勾配で道路が作れない山間部では、段をひくくした巾の広い階段として、人馬が安令に通行出来るようにしたのが普通である。
奥州街道の名残をとどめる練貫の民家
宝暦□年(一七五一~一七六三)建立の練貫村の永代常夜塔 奥州海道
原方那須湯道
家康の百ケ条自体が偽文書であると言われており、その信憑性は極めて薄いものであり、道路に関する特定の規定はなかったようにも考えられるのである。