徳川家康は慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦に大勝し、慶長八年(一六〇三)征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開き、諸大名に江戸八百八町の都市計画を命じて市街地を拡張させている。又、翌年には西国の外様大名を中心に江戸城の普請を命じている。こうした江戸城の築城と市街地の整備のためには建設資材をはじめ各種のぼう大な物資を運ぶ必要があり、その為にも急ぎ交通制度をととのえる必要に迫られて居たようでもある。
家康は関東入国後、馬込勘解由らに伝馬役を命じて伝馬制度の整備をいそいだ。
又、慶長六年(一六〇一)には大久保長安らの代官頭に命じて東海道、中仙道に伝馬制度を定めさせ、ついて翌七年(一六〇二)には町年寄、奈良屋市右衛門、樽屋三四郎の両人に伝馬手形の発行権をあたえている。こえて慶長九年(一六〇四)には東海、中仙、奥羽、北陸の諸街道を修理し、いわゆる一里塚をつくって交通制度をととのえた。
奥州への道路は天正頃(一五七三~一五九二)からは関街道には依存していなかったようで、天正十八年(一五九〇)秀吉は伊達政宗に命じて会津下向のために白坂道を開削している(白河市史)即ち奥州道中は慶長九年(一六〇四)徳川家康の発した命令が三代将軍家光の代になってようやく完成され、以来改修、整備されて奥州への本道として人びとの数々の思い出と、江戸の歴史を秘めて現代に息吹いていると見ることが穏当ではなかろうか。