宇都宮(二里二十三丁、二里半)
白沢 (一里半、一里半)
氏家 (二里四丁、二里四丁)
喜連川(二里三十丁余、三里)
佐久山(一里二十五丁、一里半)
大田原(三里三十丁、三里三十丁)
鍋掛(六丁、六丁)
越堀(二里四丁三十五間、三里十丁)
白坂(一里三十四丁、一里三十三丁)
以上を通算すると、細見記では二十一里十五丁十七間、細見記大全では二十一里三十丁となる。安政五年、天保八年前後においてはどちらもこの数字は正確なものであったのであると思う。普通は奥州道中十宿二十三といわれ、ここに記されているものとは稍異なった数字ではあるが、大体に於てこのように考へられていたものと思う。
江戸日本橋ヨリ奥州道中筋
安政五年戊午初冬新刻
街道は始終改修、補修されてその姿をかえ、里程にも幾分の増減があったことは当然と考えられるのである。大正五年(一九一六)十一月三日芦野町青年団中町支部が現在の那須町芦野支所前に設置した道標によると、宇都宮へ十八里、白河へ五里とある。
安政七年庚申二月吉日建立の元佐久山宿にある奥州街道と日光街道を知らせる道標
現在では五〇c.c.のバイクで八四キロメートルの走行距離を数え、国道四号線では八三キロメートルであった。
全国里程の元標は東京日本橋にあり、日本橋の架設年代には諸説があり一定しないが、多くは慶長八年(一六〇三)とされており、又元標は慶長九年というのが定説のようである。
(交通史、小川出版社)