一里塚とは街道の両側に一里ごとに五間四方(九メートル四方)の小山形の塚を築き、その上に榎、松、さいかちなどを植え、旅する人びとが里程を測り、また馬や人足などの駄賃を知る便をも得たものである。
一里塚の起源は中国にあるが、わが国では戦国時代の末期にはすでに存在した模様で、公には秀吉の朝鮮役中、山陽道備中河辺、北九州肥前名護屋間に設けたのが初めであるとされている(日本歴史大辞典)徳川時代になって全国的に設置されるようになり、徳川秀忠が本格的に起工に着手したのは慶長九年(一六〇四)二月四日の布令によってである。
一里の長さは時に変遷があり、又地方によってもまちまちであったが、それを統一し周知を目的とする意味でも設置されたと言われている。
一里塚設置工事の奉行には大久保長安が任命され、この一里塚が旅人のその日その日の行程を知る道標でもあり、又道中の疲れを休めるオアシスでもあったのであるが、徳川末期あたりからは次々と姿を消し、特に近年は殆んどその姿を見かけることも少なくなってしまったことは、まことに名残り惜しいことである。
尚奥州街道中五街道細見中記に見える一里塚は次の十ケ所だけである。
宇都宮、竹林間 一ケ所
海道新田、白沢間 二ケ所
喜連川荒町、喜連川間 一ケ所
明宿(中田原)、上深田間 一ケ所
ひざわ、鍋掛間 一ケ所
越堀、杉渡戸間 一ケ所
杉渡戸、寺小(子)間 一ケ所
黒川、芦野間 一ケ所
大久保、山中間 一ケ所
現在残っている一里塚は次の六ケ所位であるように思う。
大田原市中田原市営住宅入口
黒磯市鍋掛愛宕神社前の碑
黒磯市寺子小学校前の碑
那須町芦野夫婦石
那須町板屋坂の上
那須町泉田
一里塚以外の道標に、街道追分口の石柱や庚申塔、馬頭尊、石地蔵、石灯篭、金灯篭、常夜燈など信仰を兼ねた道標がある。之等は庶民の交通の隆昌にともない所々に建てられて道中の安全を祈ったり、又交通安全の手助けとなったものであるが、之等も近年は次第に姿をかくしつつあることも寂しいきわみである。