江戸時代の宿駅に課せられた役目は、公用通行の貨客に対する人馬の提供による輸送で、原則として宿から宿への継ぎ送りである。この人馬の継立が宿駅の負担であり、この負担を御伝馬役といった。各宿駅は夫々定の人馬を常備する規定で各宿駅とも人足二十五人、馬二十五疋を用意して置いたこととなる。
これは伝馬宿駅に課せられた労務で、このほかに助郷の労役がある。これら街道(往還)はその土地の領主が大名、旗本にかかわらず往還に関する一切は道中奉行の支配下にあったのであるから、伝馬宿民は幕府と領主との二重支配に服さねばならなかったのである。
奥州道中の宿駅の設置時期については、慶長六年(一六〇一)の氏家宿が最初で、その他は多くは寛永年間に成立、正保三年(一六四六)越堀宿を最後にほぼ完了したようである。
宿場は幕府の制度として設けられたものであるから義務として伝馬役を勤めなければならない。伝馬役には普通伝馬役と歩行役とがあり、街道に面した表間口に応じて課せられた。たとえば表間口六間で馬役を勤めるとすれば、歩行役は間口三間で勤めるようになる。これも隔年勤めが普通だったようで、宇都宮、白河城下町などの大きなところでは、すべての町に伝馬役をかけるわけにいかないので、伝馬町をきめてそこが負担することになっていた。その代償として伝馬宿の実地租を免ずる制度があり、これを地子免許といった。
正徳三年(一七一三)大田原宿問屋、町年寄より当時の道中奉行に提出した文書によると、宿場の長さ十五町八間、町屋数三百四軒、馬役九十五人、歩行役百十三人、扶持役十一人、無役四十七人、川越人足三十八人とある。 (印南文書)
宿々の問屋場で伝馬役として備えられている人や馬を無償で利用できるものは、公用で旅行する幕府の役人にかぎられていた。
それで定められた数だけで不足する場合は別に賃金を出して雇わなければならず、参勤の大名、一般私用の旅行者は日雇の人馬を雇って相対賃金を払うことになるが、公用道中、参勤大名その他の通行によって宿駅の常備の人馬が不足すると、不足の人馬を周囲の村々に割当て負担させるようにした。これが即ち助郷の制度である。
宝暦十四年(一七六四)五月大田原宿問屋、年寄より道中奉行安藤弾正少弼に提出した文書によれば、三十村、五千五百石余、近い所で石林、今泉、上深田、遠い所で、宇都野、金沢等が見え、幕府領(天領)鹿畑等の名も記されている。
宿駅から二、三里あるいはそれ以上離れた所から徴発されるため、一日の勤めに往復の日数まで要するので田植時期などには仕事にならず、助郷村では金銭で代納することもあり、問屋はこの金で人足を雇って御用を勤めなければならないこともあった訳である。この低賃金の労働者が雲助で、助郷村の徴発がたび重なると大変大きな負担となるために、過大な負担に堪えかねて百姓一揆に発展するケースも見られたようである。
多くの矛盾をはらみ、宿民や助郷その他の民衆の犠性の上に成立っていた宿駅の制度は明治五年(一八七二)まで続いた。