六、道中の縞の財布

1016 ~ 1017
 街道を旅行するのに、当時の旅人はどの位の路銀を持ち歩いたであろうか。時代により人によって夫々差はあったであろうが、その費用について考えてみたい。
 旅行費用は、交通費、宿泊費、食事代その他に分けられるが、交通費は公定料金が決められており、その他は大体自由料金のようであった。天保八年(一八三七)六月刊、大日本道中行程細見記大全によると、奥州道中筋宿駅間の運賃は次の通りである。
        本馬乗掛  軽尻
 宇都宮白沢間 九十文   六十一文
 白沢 氏家間 五十三文  三十三文
 氏家喜連川間 六十一文  三十八文
 喜連川佐久山間百十文   六十九文
 佐久山大田原間六十七文  四十六文
 大田原鍋掛間 百十八文  七十六文
 鍋掛 芦野間 百十八文  七十六文
 芦野 白坂間 百十八文  八十四文
 白坂 白河間 六十五文  五十一文
 本馬乗掛は馬の背の両脇の荷付に傘を入れる箱を取付け、その中に人が乗るもので、荷物は八~十貫目まで取付けることが出来る。
 軽尻はその箱がなく、客は馬の背をまたいで乗るもので、荷物は三~六貫目まで、駄馬は直接馬の背に荷物を取付る荷馬で、壱駄三十六貫目まで、人足は一人持五貫目と、すべて制限を行なっている。
 料金の定めは、天和二年(一六八二)五月の道中奉行の触書が最初で、その後しばしば改訂されている。
 旅篭屋の宿泊は正徳三年(一七一三)大田原宿町問屋、年寄より道中奉行松平石見守、大久保大隅守に提出した文書によると、旅篭賃上等百四十文、中等百二十八文、下等百二十文とあるが、天保の頃は、物価も高騰して二百文位になったようである。
 奥州道中宇都宮、白河間を普通一泊二日で旅行したから、旅篭代二百文、この道中軽尻馬で通すと五百三十四文、それに一足十二文のわらじを一日二足はくとして四十八文、立場茶屋で休んだときの茶代一文づつとして二日で四文、以上は茶屋で餅も昼食も食べず、名所も素通りという最低の経費で締めて七百八十文になる。文政七年(一八二四)頃の人足一日百二十五文とあるから人足六日と半日分の賃銭に相当し、この人足を今日の人夫賃一日二千三百円(昭和四十八年頃)に換算すると一万四千五百円位になる。今日の国鉄運賃三百二十円。
 こう考えてみると実際には思いがけない出費などもあって、昔の道中はあまり楽ではなかったようで、縞の財布にもよほどの路銀を用意しないと、とんでもない破目にあうことにもなりかねない訳である。