八、奥州道中の諸大名

1018 ~ 1020
 寛永十二年(一六三五)の参勤交代制の実施によって、江戸と領国を往復せねばならなかった奥羽の諸大名は、徳川幕府道中奉行の直轄する往還、奥州道中に出て通行したので、陸上交通の大動脈となり、重要な役割を持つに至ったのである。文政四年(一八二一)の調査によれば、参勤交代の大名は四月が最も多く、仙台、会津、弘前その他二十大名に達し、六月が之についで黒羽、大田原、喜連川、山形、棚倉、その他十五大名、五月白河、二月烏山の諸大名となっている(道中留書)。
 尚詳細は次のとおりである。
 下野国では烏山(三万石)喜連川(無高)大田原(一、一四万石)黒羽(一、八万石)いずれも鬼怒川を渡って宇都宮に出た。会津(二三万石)は会津街道を通って白河に出、越後街道では新発田(四、八万石)村松(三万石)の藩主もこの通路を利用していたようである。白河(一〇万石)現いわき市の泉(二万石)湯長谷(一、五万石)岩城平(五万石)の諸候は白河より奥州道中に出ている。その他棚倉(六、〇四万石)守山(一万石)三春(五万石)二本松(一〇、七万石)下手渡(一万石)福島(三万石)仙台(六二、五六万石)一の関(三万石)南部諸候で盛岡(二〇万石)七戸(一、一万石)八戸(二万石)松前(無高)福島へは中村(六万石)米沢(一五万石)米沢新田(一万石)上の山(三万石)鶴岡(一四万石)山形(六万石)天竜(二万石)長瀞(一、一万石)新庄(六、八万石)松山(二、五万石)本庄(二万石)亀田(二万石)秋田(二〇、五八万石)秋田新田(二万石)弘前(一〇万石)黒石(一万石)となっている。
 奥州道中を旅行する大名の総石高(二五七一、九〇〇石余)大名数三十七、越後新発田、村松を加えると総石高(二、六四九、九〇〇石余)大名数三十九となる(大日本道中行程細見大全による)文政五年駅静志によれば三十七家(日本交通史概論、大島延次郎著)道中留記によれば三十七家(二、五八九、三二一石)(江戸時代の交通、田村栄太郎著)とある。
 このあと益子氏の奥州道中は、
  奥州道中の芭蕉
  ロシヤ人の大田原宿泊
 その他各宿場宿場のようすを細かく、そして見たまゝ感じたまゝが記されているが直接大田原と関係ない部分もあるので、これ等の道中記は割愛させて戴く。

奥州道中を往来する諸大名と石高表