大田原の町内から町島の水口館の西方への通路については、いろいろの説があり、下町薬師堂前、東京電力大田原営業所南、光真寺前、稲荷堂前を通って、龍体山の七曲りを越えたのではなかろうかとの説、あるいはもう少し北を回って沼の袋から和久に出たのではなかろうかとの説、これも時代によって一定していなかったのではなかったかとの説、などいろいろであるが、ただ言い得ることは、江戸時代の荷物街道は、本道に沿った街道ではあるが、できるだけ本道をさけたのであろうことは想像出来るのである。水口館の北方に出た道は、館の北部から東北に進み、市野沢の滝、同所の温泉神社東、富池の大道内、練貫、羽田の一部北方を通り、黒磯市野間方面へと出たようである。
天正十八年(一五九〇)七月豊臣秀吉が小田原城攻略の後、奥州征服の途次、大田原城に二泊したとある時の通路はこの道であるようである。
寛永四年頃(一六二七頃)奥州街道開通後はこの荷物街道は副道となり、もっぱら荷物運搬路としての役目を持ち(一名駄賃道ともいう)、主道が混雑する場合や、急ぎの旅人等はこの道を利用したのではなかろうかとも思うのである。
この通路にあたる平沢には当時問屋があり、現在の渡辺博氏の家がそれである。平沢は後記の原街道もここから分れて北上するものであり、又立海道の枝道もここを通るなど当時は交通上の一要地であったようである。
以上は関街道を中心として、奥州道中およびこれらの副道ともいうべき奥州荷物街道について述べたのであるが、これについては次のような文献がある。
乍恐以書付御訴訟申上候事
一、奥州より江戸往来之道筋 本道 関街道 原街道と申 白川より三筋御座候而先年より万荷物上下仕候然所ニ本道喜連川より白川迄八ケ所之問屋共松平大和守様江御訴訟申上候由ニ而籏(ママ)宿江罷出候登り荷物御留被遊候ニ付関海道馬継数ケ所迷惑仕候事
一、関海道之儀ハ古来より之道筋御座候其上順路能駄賃銭茂下直(ね)ニ御座候故商人茂望罷通り候関東より奥州江之下り荷物も江戸より舟積仕境河岸、乙女河岸江着船仕関海道罷出於に今籏宿より白川江付送り申候事
一、御大名様方御通り被遊候節ハ関海道筋之村々御用助人馬本通より申参次第ニ罷出相勤申候其上鍋掛川洪水之時分は御大名様方其外江戸上下之御家中御荷物黒羽舟渡江御懸り関海道御通り被遊候事
一、先年より白川御代々之御城主様籏宿へ罷通り御荷物御留被遊依之当七月中関海道筋問屋共白川御役人衆中江御訴訟申上候得共御承引不被成之故馬継之村々迷惑仕候事
一、先月廿三日より御当地江罷登り松平大和守様御屋敷江数度御訴訟申候得共御承引不被遊候ニ付乍恐御訴訟申上候以 御慈悲先年之通り白川より籏宿江之登り荷物御通シ被下候ハヽ難有可奉存候以上
奥平熊太郎領
板戸村
同領
石末村
元禄八年亥 大田原和泉守領
九月十四日 鴻野山村
下嶋甚右エ門御代官所
鹿子畑村
御奉行様 同御代官所
福原村
同御代官所
蛭田村
大関大助領
余瀬村
同領
黒羽町
同領
寒井村
外山小作御代官所
伊王野村
大関大助領
蓑沢村
右拾壱ケ所之内
訴訟人
伊王野村伝石エ門
黒羽町茂右エ門
鹿子畑村八兵衛
鴻野山村伊兵衛
この訴書の裏書に次のように記してある。
如斯目安差出間致返答書来月十四日評定所江罷出可対決若於不参は可為曲事者也
御用ニ付登城
亥九月廿五日 志摩
下野印
美濃印
摂津印
御用ニ付登城
出雲
紀伊御印
炊
能登
伊賀御印
(印南家文書)
この文書にある本街道は奥州街道のことであり、原方道は氏家町の阿久津河岸から、鷲宿、平沢、槻沢、東小屋、高久、小島を経て白川に至る道のことで本街道の脇街道ともいうべきものである。関街道とあわせてこれら三道が那須野を横断して白川に達する主道で、本道と他の二道の異なるのは本道が江戸から陸路を途中の宿場宿場を経て奥州へ通じたのに対して、他は鬼怒川河岸から白川間の道であったことである。
なお大和朝廷が蝦夷征服後東北への大道として途中の要所要所に関所を設け監視を厳にした関街道と、ここに記されている関街道とは異なるものであることを付記しておく。
なお江戸より板戸河岸までは江戸川を溯って利根川との分岐点関宿の近くの境河岸へ、そして利根川を下り千葉県瀬戸河岸近くで鬼怒川に入りこれを溯って板戸に到る河運によったものである。