その通路は奥州荷物街道で記したように、氏家町阿久津河岸から、平沢までは前記の街道と同一であるが、平沢公民館の横で奥州荷物街道と分れ、(現在この地に元文五年建立の庚申供養塔を兼ねた道しるべがあり、右大田原道(鷹の巣を通って大田原に出る)左石林道と記されている。ここから石林を通り、関根、槻沢へ出た道と、平沢から西那須野駅の西方から、南郷屋、高柳を通って槻沢へ出た道と二本あったようである。槻沢からは黒磯市東小屋、那須町高久へ、そして小島あたりで陸奥街道に合し白河へと通ずる脇街道であったのである。
平沢公民館横の道標 裏面に 元文五申歳(一七四〇)十月吉日
右側に 右 大田原道
左側に 左 石林道
講中十八人
なおこの通路については元大田原高等学校教諭高崎寿氏の研究物(地方史研究八三、奥州道中脇街道――所謂原街道――について)があるのでその要点を摘記する。
原街道とは現在の福島県白河市より栃木県氏家町阿久津に至る江戸時代の街道で、現在の陸羽街道即ち国道四号線の一部にほぼ一致する。江戸時代にはこの街道に平行して、幕府道中奉行の支配下にあった五街道の一つである奥州街道が宇都宮白河間に通じ、奥州三十六大名の参勤交代路として存在し、宿駅も整備されて栄えていた。原街道はこの本街道に対して脇街道又は裏街道であった。(中略)
この原街道の南部は三斗小屋、板室を通ってくる会津中街道や、会津西街道から分れ塩原を南下する会津中街道の一部や、黒羽、大田原方面からの日光街道などと交錯して純粋性を欠き、又中部の扇央部は飲料水を欠いたので、後述の如く途中から本街道にそれる場合が多かったから、原街道の最重要部分は北部の白河から高久までの部分であったと言えよう。(中略)
原街道は正保二年(一六四五)会津藩主保科正之が藩の江戸屋敷滞在中における経費支弁の必要から年貢米江戸輸送のために新に設けたものである。この大名米は江戸廻米或は御城米輸送などと呼んでいる。正保二年は全国大名の参勤交代制の確立を見た寛永十二年(一六三五)の十年後に当っている。(中略)
原街道の開発は幕府の勘定奉行伊丹順斉が監督となり、白河藩主榊原忠次の家臣中根善右衛門が立合って普請が行われた。尚高久から阿久津までは第二次工事として行れたらしく、菅長門守の監督で普請が行われたと記されているが、詳細は不明である。
原街道の宿駅は白川より黒川、夕狩、逃室、小島、高久、東小屋、槻沢、平沢、鷲宿と来て阿久津に達する。宿駅の間隔は一定しないが、約二~三里で一日往復の継送りは容易であった。又逃室と小島は宿間僅かに十町程の近距離にあったから、一宿と見倣されて両宿にて半月交代となっていた。黒川と夕狩間も約一里、東小屋、槻沢間も三十町程度であったから、継立てに際して一宿どちらか省く場合もあった。勿論大名の城米以外の商人荷物などは、一般に宿場毎に積換えをせず、白河、阿久津間を二泊三日位で付通すこともあった。
宿場には会津藩廻米方から任命された問屋があり、問屋株を持ち廻米輸送や一般荷物輸送事務を取扱って荷口銭を徴収していた。荷口銭は半分はそこの領主に運上金として納入する規定になっていた。その外問屋には荷物蔵があって、輸送の荷物を保管しては蔵敷と称する保管料銭を徴収することができた。(中略)問屋の数は一宿一軒が普通であるが、夕狩と逃室間はそれぞれ二軒、黒川には三軒も置かれて居た。そして輪番に交代して任務に従っていた。又問屋は家格によって任命され、会津藩の許可を得て世襲していたが破産した為問屋株を他に譲ったり預けたりする場合もあった。問屋は大抵名主或は村頭を兼ねていたので、その宿場の村は勿論配属していた附子村をも支配する特権階級であった。(中略)原方街道は米街道であったと言われている。……廻米輸送は秋から春にかけて一ケ年凡そ七万駄十五万俵が運ばれ輸送時には廻米方役人が宿毎に勤番して監督や連絡にあたっていた。廻米が宿場継送り形式で行われたことは、他の商品荷物と異なり旧慣を保持する公用伝馬制に準じたものであろう。(以下略)
以上の記の内名称上よりすれば「原街道の最重要部分は白河、高久間までの部分であったであろう」という点はいささか疑わしい。白河、高久間は原方といわれるにふさわしい場所ではない。那珂川西より平沢間は明治初年開墾が行なわれるまでは東那須野、西那須野といわれた原野であり、ここを通った道であったためにこの名が起こったものと考えられる。