この街道の通路は、阿久津河岸から矢板市川崎、山田を通り、箒川を渡って市内下石上(この道は現在山田街道と呼んでいる)に出、上石上からは大貫、西那須野の境界を北上して上横林から高林、百村、板室深山ダムの沼の原近くを更に北上して那須の三斗小屋(黒磯市)に出る。三斗小屋からは那須岳の西三倉山との中間、大峠を越えて福島県に入り、下郷町あたりから会津に出たようである。
現在上石上の北の方塩原街道との分れ道に、宝暦十二年(一七六二)上石上村建立の「寒念仏供養塔」があり、この塔の台石に、
「右なすのゆ、あいづ 左志を原みち」
と大きな自然石に刻んだ道しるべがあり、二百余年の歳月を経たものであるがかすかに読める。
宝暦十二年(一七六二)上石上村建立の会津中街道の道標
寒念仏供養塔台石
なすのゆ
右ハあいづ
みち
左ハ志を原
この山道を上石上から更に北に進むと西那須野 大貫境の道の両側に大きな一里塚があり、塩原町教育委員会建立の重要文化財「会津東街道一里塚」の石の標柱がある。
なお、上石上の小野崎東(あづま)氏宅には「会津中将宿」の木の標札があり、「会津の殿様が参勤交替の時にはいつもこの道を通り、小野崎家を宿にしたのである。」になどの言い伝えがあるが、平素の参勤交替の折には、各大名は奥州道中を通らねばならない規則があり、従っていかに親藩会津候とは言い、この道を参勤交替に利用することは出来なかった筈である。
たまたま享保八年(一七二三)日光社参を理由に会津西街道を通行しようとした際、八月、五十里湖方面が大洪水のため崖崩れがあり、通行不能におちいったため、この中会道を利用したとも考えられる。(これに対する記録はない。)
上石上小野崎東氏宅にある「会津中将宿」の標札
小野崎東氏宅はもと会津中街道の問屋場として会津藩から指定されていた模様で、荷物の発送や荷受けの帳簿などからもこのことが察せられるのである。
明治維新のおり、会津藩兵やその他の兵によって石林、大田原などは手痛い攻撃を受けているが、奥州街道の西軍の物資輸送を遮断するためには大田原城を攻撃するための最短距離として、この道を利用したのではなかろうかと思う。(会津兵を手引して大田原城を攻撃させた者は当時この地方に入り込んでいた屋根屋であるとの説もあるが、今後の研究をまちたい)