第四節 立海道

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 普通は立街道とも書かれ、一般的にはタツミチ等と呼ばれている道である。
 この道は昔時この那須野の地方と常陸方面とを結ぶ主要な通路で、立海道の名は常陸(日立)(ひたち)へ通ずる道の意であろうと言はれている。(一説には高所を通る街道であるから立海道と名付けられたとの説もあるようであるが、直ちに賛成出来兼ねる点もある。)
 この通路は水戸方面から那珂川右岸を通り、(一部左岸を通ることもあったようである。)茂木、千本から南向田へ、ここで道は二つに分れ、鴻野山、厩久保を経て北上する西街道と、烏山、大桶、佐良土、大河内、根本を経て那須神社の西を通り、金丸新宿、古宿より小滝明徳寺西、鶴子内近くで奥州街道を横断(市文化財指定の高野槇の北)富池地内松原東部、吉際の東部を通り、黒磯市の木曽畑中、沼野田和の東部、東小屋、沓掛、弥六を経て高林に至る道を東立海道と言ったようであるが、佐良土から北上する道は単に前記の一筋道ではなく、この本道から分れて北上する数本の道も皆立海道といっているところからみると、その枝道をも含めて、いつとはなしに立海道の名が付されたようである。
 滝沢から平沢、薄葉、下石上、上石上を通る道も立海道であり、中田原公民館の横を通って北上する道にもこの名があり、羽田の長者平の東部を通る道などにも此の名があり、後には本道と支道との区別もつきかねる有様であったのではないかと思う。
 この通路は、その大部分が昔時のまゝの姿で残っており、現在もタツミチの名のもとに利用されている所もある。
 この道路は主として那珂港近海の海産物を那須、塩谷の地へ運んだというだけではなく、その帰り道には那須野方面の特産物ともいわれる、木の皮(柏の皮、漁網の塗料としてその煮汁を使用)を持ち帰るなど、山地と海岸部との大きな交流のために必要であった道のようである。又那須氏と佐竹氏との間に幾度かの抗争が行われているが、この際には兵を動かし兵糧を運ぶ主要な道路として使用されたのもこの立海道であったように思う。