那須野からは常陸への立海道と同じく、主として漁網用の塗料原料であるかしわの木の皮を運んだもののようである。
然しその記録は現在まで見当らず、推測の域を出ないのであるが、水戸方面と物資の交流が盛んであった黒羽町阿久津家文書等によりこの推測は大体に於て間違いないように思うのである。黒羽の地へ海産物の移入先は、立海道よりのものか、或は舟便を利用するか、又は棚倉海道を利用するかの何れかであるが、その道程は大体一二〇キロメートル前後であり、舟便によるものの他はいずれも、馬の背による運搬にたよる以外に方法がなかったため、当時新鮮な生魚を食するなどは思いも及ばなかったのである。
なお市内通路のうち大田原、小滝間は現在の奥州街道ではなく、前記奥州荷物街道から水口城の西部で分れ、市野沢の聖徳太子碑の所で奥州街道を横ぎり、小滝へ通ったようであり、この碑の横に元禄四年(一六九一)建立の左奥州街道、右たなくら道なる道標がある。
元禄四年(一六九一)上深田村建立
大田原市内で一番古い道標
念仏供養塔兼道標で
是より左 奥州通
是より右 たなくら道とある
この通路にあたる下羽田に長者平なる先史時代の遺跡があり、この地に「うまや窪」など呼ばれる地名が残っている。長者平、長者窪、長者屋敷等各地に残っている長者の名は、古代より中世にかけての駅の長の居住地であるといわれている点からみて、この羽田の地にも駅があり、駅馬が置かれ、物資輸送の便をはかった重要な地点であり、通路であったのではないかと思う。
大宝令厩牧令に、
「凡駅各置二長一人一、取二駅戸内 家国富幹レ事者一一置以後、悉令二長仕一」
とあり、後期徳川幕府道中奉行のように、その地区内では相当な権力を持ち、又責任ある仕事にたづさわっていたようである。
この道路も亦前期立海道と同じように、東海道及東山道等奥州への主要道路を結ぶ大きな役割を果していたもののようでもある。一面この二つの道路は海産物を各地方及び山間へ運ぶための浜海道としての役割をも兼ねていたのではなかろうか。