第六節 カノ街道

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 この道は「火野道」「鹿野道」等と書かれており、火野(カノ)に通ずる道の意であると言はれている。火野とは森林原野に火を放って焼き払い、その後へ稗やそばなどをバラ播にする極めて原始的な掠奪農法の行われた場所をいい、この那須野の地でも、水田を利用することの困難であった時期では長く行われた農法であり、特に那須野の北半部に多かったため、この地方をカノと称していたとのことである。大体は下石上より市野沢北部の地に引いた線をその境界と考えたようである。
 建久四年(一一九三)源頼朝が巻狩を行った地が大凡この地域で、当時この地には人家等も極めて稀で、草木の繁るにまかせ、所謂那須野ケ原の広漠たる原野であったようである。
 この火野の地に南と西から通ずる道が火野街道であり、南からの道筋は、奥州荷物街道が蛇尾川を渉り、水口館址の西に出て、その北部で前記の荷物街道と分れ、荒井の西部 舟山の西、戸野内の小五郎内西から黒磯市木曽畑中、沼野田和地蔵西、大原間神社前、弥六、塩野崎、鹿野崎へと通ずるものであり、西からのものは、下石上で会津中海道と分れ、西那須野町南郷屋、関根、下中野を経て沼野田和の地蔵堂横で前記火野街道に合するか、南郷屋からはこの道に分れ接骨木、高林の南を通って広谷地に出、池田、大沢(ひやり)かな出た道もあったようで、高林で町島から北上した火野街道と合し那須町百村へ出て会津中海道に合するか、高林から広谷地方面に出、池田、大沢へと通じた一名ひやり道となったようである。(大沢は明治維新頃大火のあつた時までは「ひやり」と言った由)
 下石上の国道四号線の横、前期会津中海道(或は塩原ゆの道)と別れる火野道の入口に「左しほはら、右ひやり」の道標がある。

下石上にある「ひやり道」の道標

 道は真に「けものの道」から発達して、人の歩く道となり、しかもその道は、比較的南を通った関街道(秀衡街道)から、奥州荷物街道や奥州街道へと進み、やがて北部の開発が進むにつれて、或はこの地方の開発のために国道四号線や東北本線となって北に移り、更に最短距離を走る東北自動車道となる。
 しかも之等の道路を結ぶためには、この道と交差する幾筋かの道を見出す、これが古代から現代へと移り変った道の姿であるように思うのである。