第七節 日光北街道・付奥の細道

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 日光北街道は、「日光道」・「日光街道」ともいう。大田原から沢(矢板市)・矢板・高内(矢板市幸岡)・玉生(塩谷町)・船生(塩谷町)・大渡(今市市)・今市を経て日光鉢石に至る街道をいう。大田原から日光方面への道は、「日光道」・「日光今市道」とも呼び、日光今市から大田原方面への道は、「太田原道」・「白河道」または「松前道」と通称呼んでいたようである。今市より日光鉢石までの間は、江戸五街道の一つ日光道中と重複するので、厳密な意味における日光北街道とは、大田原、沢、矢板、高内、玉生、船生、大渡、今市間を数える。日光北街道の呼称は江戸時代の文書にはその名をみいだすことはできない。後世の人が便宜上つけたのかも知れない。ここでは、栃木県歴史年表「近世交通図」のなかで、日光北街道として取扱っているのでこれによった。
 日光北街道の起源については確かな資料がないので明確にしがたいが、室町時代の応仁二年(一四六八)秋、連歌師宗祗が記した「白河紀行」に、
  白河紀行                      飯尾宗祗
一 日光から那珂川まで
 つくば山の見まほしかりし望をも遂げ、黒髪山の木の下露にも契りを結び、それより、ある人の情にかゝりて、塩谷といへる処より立ち出で待らんとするに、空いたうしぐれて、行末いかにとためらひ待りながら、立ち止まるべきことも、旅行くならひなれば打ち出でしに(省略)那須野の原といふにかゝりては、高萱道を塞きて、弓の筈さへ見え侍らぬに、誠に武士のしるべならすば、いかでか、かかる道には命も絶え侍らんとかなしさに、武蔵野なども果てなき道には侍れど、ゆかりの草にも頼む方は侍るを、是は遺る方なき心地する。枯れたる中より篠の葉のうちなびきて、露しげきなどぞ、右府の詠歌思ひ出でられて、すこし哀れなる心地し侍る。しかはあれどかなしき事のみ多く侍るを思ひ返して、
  歎かじよこの世は誰も憂き旅と 思ひなす野の露にまかせて
 同行の人々思ひ/\の心を陳べて、暮るゝほど大俵という所に至るに、賎しの民の戸を宿りにして、柴折りくぶるなども、様変はりて哀れも深さに、うちあはぬ賄などのはかなきを言ひ合はせて、泣きみ笑ひみ語り明かすに。
                               (以下省略)

 これは応仁の乱後、宗祗が京都を離れて諸国行脚の旅に出、常陸、武蔵、下野を経て白河への旅の紀行文である。いまから約五百余年前の秋、宗祗は白河の関を訪れるため日光・塩谷・大俵(大田原)・横岡で泊りを重ねて白河の関へと縦断している。当時どの辺りを通過したのか明確にしがたいが、日光から塩谷・大俵、へとの行程が点で結ぶことができることから、すでに日光より大田原への道が開かれていたものと考えられる。
 日光北街道が旅人たちに多く利用される様になるのは時代がくだって江戸時代になる。寛永十三年(一六三六)日光廟が完成し、結構を極めると、奥州方面からの日光参詣の旅人をはじめ奥州の諸大名にも利用されたようである。日光北街道を利用しての諸大名の日光参詣の通路は、天保年間(一八三〇~一八四四)からで、それ以前は宇都宮に出、徳次郎、大沢の日光道中を進んだ模様であった。これは街道筋の宿場が宿場としての諸大名の行列を収容することの機能に欠けていたためではないかと思われる。奥州道中より日光に向うには、この街道筋が最短距離なので奥州諸大名も利用した模様である。
 安政五年(一八五八)五海道中細見記によれば、大田原、沢間二里八丁(八、九キロメートル)、沢、矢板間一里十丁(五、一キロメートル)、矢板、高内間十八丁(二、〇キロメートル)、高内、玉生間二里十丁(九、一キロメートル)、玉生、船生間一里二十六丁(六、八キロメートル)、船生、大渡間一里余(四、〇キロメートル)、大渡、今市間二里(八、〇キロメートル)と記されている。
 矢板市沢から大田原への道は、沢から箒川の薄葉橋を渡り県道滝沢野崎停車場線を下薄葉で横断して日本ファマシー株式会社前を通過、名木のナンジャモンジャの木・市営住宅実取団地を経て加治屋から県道大田原矢板線の末広町前田家具店脇に出、通称神明町十字路で旧奥州道中と合する道路でほぼ道型を残しているようである。現在の県道大田原矢板線は、明治十三年(一八八〇)十月から同十六年(一八八三)十一月に開かれた道路である。
      ・
 奥州道中大田原宿、宿方明細書上帳によれば大田原より沢までの当時の駄賃人足賃銭を知ることができる。
   日光之方沢村江 弐里八丁
   右宿之儀ハ御定之継場
      ・
      定
   一、大田原より之駄賃并人足賃銭
      日光道沢村迄
       荷物壱駄  七拾八文
       乗掛荷人共 同断
       軽尻馬壱駄 五拾文
       人足壱人  四拾文
   右之通可之、若於相背ハ可曲事もの也
   正徳元年(一七一一)五月 日
                                     奉行
     定
   来寅正月より来る午十二月迄五ケ年間之間駄賃并人足賃銭
   壱割五分増之上江三割増、都合四割五分増
      日光道沢村江
       荷物壱駄  百拾七文
       来掛荷人共 同断
       軽尻壱駄  七拾三文
       人足壱人  五拾八文
   右之通可之、若於相背ハ可曲事者也
    天保十二年(一八四一)丑十二月
                     奉行
           但、猶又年延
 
 日光北街道は、当時、奥州道中と日光道中を結ぶ脇街道として、また原方道、会津中街道、会津西街道等の氏家宿、阿久津河岸へ連絡するための重要な道路であり、封建的社会の権力者と共に生まれ生き、権力者と共に滅んだ道路でもあった。
 しかし現在でも東北方面からの日光参詣への通路として、日光国立公園観光の道路として姿を変えて生きているのである。
 
    付・奥の細道
 
 元禄二年(一六八九)三月、江戸千住を出発した俳人松尾芭蕉は、門人河合曽良をともなって「奥の細道」の旅に。栃木県に入って歌枕として有名な室の八島、初夏の日に映える日光の美しさと黒髪山(男体山)、裏見の滝を見物して、日光北街道筋を急ぎ那須野に入る。
 
     奥の細道                      那須野
 那須の黒羽という所に知る人あらば、これより野越えにかかりて、直道を行かんとす。遙かに一村を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜を借りて、明くればまた野中を行く、そこに野飼ひの馬あり。草刈る男に嘆き寄れば、野夫といへどもさすがに情知らぬにはあらず、「いかがすべきや。されどもこの野は縦横に分かれて、うひうひしき旅人の道踏みたがへん、あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返したまへ」と、貸しはべりぬ。小さき者ふたり、馬の跡慕ひて走る。ひとりは小姫にて、名を「かさね」といふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、
  かさねとは八重撫子の名なるべし
     曽良
やがて人里に至れば、価を鞍壺に結び付けて馬を返しぬ。
   ・
   曽良随行日記
一 四月二日 天気快晴。辰の中尅(午前八時ごろ)宿ヲ出。(省略)鉢石ヲ立。奈須太田原ヘ趣。常ニハ今市ヘ戻りテ大渡りト云所ヘカヽルト云〓(ども)、(省略)日光ヨリ廿丁程下り、左ヘノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾、川室ト云村ヘカヽリ、大渡りト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。

 ○今市ヨリ大渡ヘ弐り余。
 ○大渡より船入(船生)ヘ壱り半ト云〓(ども)壱里程有。絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡シ。
 ○船入より玉入(玉生)ヘ弐り。未ノ上尅(午後一時半ごろ)ヨリ雷雨甚強、漸ク玉入ヘ着。
一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。
一 同三日 快晴。辰上尅(午前七時半ごろ)、玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内よりヤイタヘ壱りニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱り。沢村ヨリ太田原ヘ二り八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云〓(ども)二リ余也。翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。


 
 曽良の随行日記によれば、芭蕉師弟は大渡りより日光北街道筋を玉生で一泊。四月三日には高内(幸岡)、矢板、沢より大田原へと通過したようである。沢から箒川を渡ると広大な那須野け原である。素朴な野夫に馬を借り、その馬のあとを慕い走った小娘かさねのことを書いた「奥の細道」が、おのずと思い寄せられるところである。那須野と草刈る男との出合は、土地のものが「カヤバ」と呼んでいる実取団地附近か。馬を借りて駄賃を馬の鞍つぼに結びつけて返した人里は大田原と無理なく考えられるところでもある。大田原から黒羽余瀬への道はどの辺を通ったか定かでない。
 太田原は元大田原町、当時は大田原備前守典清の時代である。黒羽根は黒羽町、当時は大関信濃守増垣の時である。黒羽は芭蕉師弟の最も心を惹いた土地なのであろう十三泊十四日滞在している。曽良随行日記によると、次のように記されている。
一 四日 浄法寺図書ヘ被招(まねかる)。

一 五日 雲岩寺見物、朝曇、両日共ニ天気吉。

一 六日ヨリ九日迄、雨不止。九日、光明寺ヘ被招。昼ヨリ夜五ツ過迄ニシテ帰ル。

一 十日 雨止。日久シテ照。

一 十一日 小雨降ル。余瀬翠桃ヘ帰ル。晩方強雨ス。

一 十二日 雨止。図書被見廻、篠原被誘引。

一 十三日 天気吉。津久井氏被見廻而テ、八幡ヘ参詣被誘引。

一 十四日 雨降り、図書被見廻終日。重之内持参。

一 十五日 雨止。昼過、翁ト鹿助右同道ニテ図書ヘ被参。是ハ昨日約束之故也。予ハ少々持病気故不参。

一 十六日 天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬を立。及昼、図書、弾蔵より馬人ニ而被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。高久ニ至ル。

と詳細に記されている。浄法寺家の書院跡には「山も庭もうごき入るや夏坐敷 芭蕉」の句碑が建っている。雲厳寺では参禅の師、仏頂和尚の山居のあとを慕って「木啄も庵は破らず夏木立 芭蕉」と一句を残した。この句と仏頂和尚の一首「たて横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」を併刻した碑が本堂脇に建っている。余瀬の光明寺では道中の無事を祈って行者堂を拝み「夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな」と詠んだ。この句碑は光明寺跡に建っている。
 
 八幡宮に詣づ、与市扇の的を射し時、「別してはわが国の氏神正八幡」と誓ひしも、この神社にてはべると聞けば、感応殊にしきりにおぼえらる   奥の細道

 
 四月十三日一行は南金丸の那須神社を、那須与一宗隆が屋島で扇の的を射った時に祈念した神社だとして参拝した。が、その時の八幡宮ではなさそうだ。この時の八幡宮はある特定の場所を指しているのではないようだ。
 三浦介が狐狩の時に犬を放して騎射を練習したところだと伝えられる蜂巣の「犬追物」の跡。鎌倉武士の那須野の狩、那須野篠原。玉藻前に化けた金毛九尾の狐の古墳と伝えらる処を訪ね、四月十六日芭蕉師弟は黒羽を浄法寺図書から馬で送られて出発する。野間へ出る途中、那須野の四方果しない広野のさまを見、この那須野での鎌倉武士たちのイメージにかきたてられいるところえ、館代より馬にて送られた口付き男の「短冊得させよ」との乞に、
 野を横に馬引き向けよほととぎす    芭蕉
即興的に一気に詠んだ。そして芭蕉はこの自然、那須から永遠に残るものをつくり上げた。この句碑は黒羽向町常念寺境内と黒磯市鍋掛八坂神社の境内にある。当時、芭蕉は余瀬からどの辺りを通過したか明確にしがたいが、余瀬から桧木沢、下羽田、羽田から野間へとのコースが自然のように考えられる。
 野間よりは高久、那須湯本、芦野の遊行柳、そして芭蕉が目的地の一つとして数えていた「白河の関」を越へて、奥羽、北陸地方への行脚「奥の細道」の旅に向うのである。