那須神社(南金丸)通称金丸八幡 旧郷社 神紋 三ツ巴

1071 ~ 1074
主祭神  応神天皇
配神   別雷神 大己貴命 少彦名命 稲倉魂命 須佐之男命 火彦霊神 武甕槌命 高〓神
境内神社 高良神社(武内宿禰命)、宗像神社(市杵島命)、神明宮(大日霊貴命)、愛宕神社(加具津知命)日本武神社(日本武尊)、祖霊社(代々神職神霊)
祭礼   九月十五日(例祭)、二月十八日(新年祭・春祭)、十一月二十七日(秋祭・新嘗祭)、三月十五日(永代々神楽祭)、毎月十五日(月次祭)
宝物   一、太刀一振(長さ二尺七寸四分銘不明伝弘綱、那須余一宗隆が扇の的を射たとき滞用したものといわれ、余一の奉納と伝えられる。
一、太刀一振(長さ二尺七寸、銘一文字、牛切丸と号す。白河関入道義親奉納)
一、鰐口一口(文和二十二年乙末(一三七三)八月十五日敬白(文中二癸丑、北朝応安六癸丑(一三七三)であろう)、那須庄福原南金丸八幡宮大且那藤原忠坊斎江州=那須家、神殿を改築したとき奉納したと伝えられる。)
一、鰐口一口(天正五年丙子(一五七七)天正五年は丁丑であり、丙子は天正四年である)八月十五日奉納、八幡宮鰐口、大工塙外記大且那大関美作守高増同弥十郎清増=大関家、神殿再建の際奉納という)。その他宝物多数。特殊神事並びに神賑行事 例祭当日、馬場(参道)中央にできた仮屋に、神輿の御神幸があり、大前に古式により流鏑馬、次に獅子舞、角力の奉納があって遷幸する。
由緒沿革 仁徳天皇(四二一~四二五)の御宇、下野国造奈良別命、国家鎮護として本地清浄の地を選び、金瓊を埋め塚を築き、祠を建てて天照皇大神、日本武尊、春日大神を祭ったのが、その初めであると伝えられる(当時この地を野沢といったものを金丸と改めた)。後、延暦年中(七八二~八〇六)征夷大将軍坂上田村麿、東夷征討のとき、この他の森々として奇樹のあるのを眺めていると、古塚に小祠があったので、ここに応神天皇を勧請して、金丸八満宮と号し、戦勝を祈ったという。永承六年(一〇五一)陸奥守鎮守府将軍源頼義、その子源義が奥州の逆徒、安部頼時追討の勅命をうけ下向の途次、当郡青野の宿陣に軍勢を充たして、まさに奥州に出発しようとすると、一番(つがい)の白鳩が飛びきたって白旗の上にとまり、南西の方向を指して飛び去った。これより十余丁(約一キロメートル余)南西の方向に森林があり、この内に飛び込んだ。大将不思議に思い、これは八幡大神の応護の瑞であろうと、近臣を遣わしたところ、欝蒼たる樹木の繁茂した霊地があり、中央の大きな古墳の前に、八幡宮の祠があった。頼義は大いに喜び、自から神前にぬかずき神助を祈り、勝利を得れば神殿を建立し、この地を神領に寄進することを誓った。後、賊徒を平定して帰京の途次、首藤権守資家に命じて宮殿を建立させ、馬場を奥州街路まで貫き、両側には松・杉・桧等を植え、神領五十石を寄進したという。その後寛治二年(一〇八八)清原武衡、同家衡等が乱を起し源義家が再び下向、先例によって当社に訪でて戦勝を祈願、逆徒を鎮定する。上洛の帰途神門および天照皇大神・日本武命・春日大神の宮殿を建立した。御手洗の池水は霊水で、金生水と名づけ、流れ出る川を金井川と呼んだといわれている。
 後、久寿(一一五五)三浦上総介義澄が命を奉じて、那須野ケ原の悪狐を退治したとき、当社に祈願し、たやすく射止めることができたので、このときの弓を奉納したという。これより先、首藤権守資家改め貞信(那須氏の祖)が、賊徒を討った功によって、従三位下野守に任じられ、邑を那須に賜わった。下向してから那須氏の代々の氏神とし、神領神宝等いくつかの寄進があった。崇敬厚く大華表を建て、惣社八幡宮と金色の文字を彫った扁額をささげ、神主をおき那須氏代々年中月々の神事に社参したという。例祭には幣帛をささげ、四時神楽を奏して祭祀にも怠ることがなかったという。
 元暦二年(一一八五)那須余一宗隆が、四国の屋島において扇の的を射るとき、八幡大神・温泉大神を心中に念じ、名声を天下に博したという。このため文治三年(一一八七)、土佐の杉で社殿を再建し、太刀一腰、的の扇を射た弓矢を奉納したといわれている。このほか神領として当郡の内、乙連沢村、桧木沢村、亀山村を寄進した。
 わけても陰暦八月十五日の例大祭は壮厳で、馬場中央に仮屋をつくり、神輿を御幸奉り行装は神馬を数多く引き、御先払道祖猿田彦御鉾御幡八流、次に御成世奉役の随兵が、これを守護して仮屋に移し、神前に諸々の社人伶人舞楽を奏し、流鏑馬の騎式、角力は誠に如任の儀であり、那須殿はじめ家臣に至るまで、棧橋を構え終日神意をなぐさめたと伝えられている。
 当時福原という地に、更に当社を分祀し、その村を八幡村といった。以来、黒羽大関氏の氏神として、天正五年(一五七七)大関美作守高増、同弥十郎清増が本殿・拝殿・桜門を再建し、その後、寛永十七年(一六四〇)大関土佐守高増も社殿を大修理し、華表・水舎・石灯篭など、内外の整備を行なった。次いで寛保四年(一七四四)甲子二月、奉行山能大郎次に命じて修覆を加え(その後、年々小修理が行なわれている)、金丸村、桧木沢村の内、神領五十石を寄進した。