第一節 愛宕権現由来

1093 ~ 1095
 愛宕権現は、建武年中(一三三四~一三二六)前室村に奉祀されたと伝えるが、詳らかではない。文明年中(一四六九~一四八七)に再建されたとある。寛永十六年(一六三九)八月、備前守政清霊夢を感じ、検地奉行大田原隼人、普請奉行鈴木弥市右衛門に命じ、下町池ノ中島より、竜尾山(大久保山)に遷宮し、十一月二十四日遷宮の式典を行ない、名を地蔵院(寺院各説参照)と改めた。
 慶安三年(一六五〇)に至り、下町より火除の鎮守として分祀を出願して許可され、池ノ中島の旧跡に四月二十四日鎮座し、遷宮祭を行なった。
 延宝二年(一六七四)九月十一日、山城守高清は、愛宕権現に永楽三百文の田地を寄進する。(以上権田家夘日記より)
 なお、同神社入口鳥居の左側に石碑があり、その碑面に左のように記されている。
   愛宕神社の由書
 当社の御祭神は、火産霊命(注 阿遇突知神(かぐつちのかみ)、火之迦具土神、火之炫毘古神(かがびこのかみ)、火之夜芸速男神(ひのやぎはやおのかみ)などと書かれているところもある)を奉斎し町内火防の守護神として、古くより上下の尊崇極めて篤く、古来其祭礼も盛況をみたるものなり。
 文明三年(一四七一)十二月大田原北町に(旧奥州街道の北側をすべて北町といった)始めて創立し、寛永十五年(一六三八)八月、城主備前守丹治政清霊夢に感じ、此社を守り上の山に遷宮せしところ、正保三年(一六四六)同四年(一六四七)慶安二年(一六四九)と引続き町内に出火の為、神託によって、町年寄印南弥左衛門、阿久津善左衛門、遅沢安衛門始め総氏子の願により、元の神地現在の所に再遷宮し、神慮を慰め奉り、永く火防の神として奉斎し、慶安三年(一六五〇)四月二十四日、社殿竣工遷宮祭を執行し現在に至る。而して例年鎮座の日を記念して、天下泰平、国家安穏、町内安全祈祷を執行するに至れり。
 碑の裏面に慶安三年(一六五〇)建立時の棟札写の記載がある。
   神殿内棟札写
 当社依願総町火防の為め鎮守地愛
 宕旧地故 干時慶安三年庚寅四月
 二十四日 遷宮 祭主 菅原慶奔
  天下泰平大田原家代々武運長久
  火産霊神 夜廼守日能守攸
  国土安穏 子孫繁栄
   大壇主 大田原備前守政清公
 
 とあり、次に昭和四十五年この碑を奉納した人名がある。権田家文書である夘日記と、この碑文の内容には幾分の違いはあるが、大田原宿が火災の多かったことは、すでに前記のとおりであり、その火災をおそれた宿(しゅく)の人達が早くからこの神を奉して、町内の安全を願ったこともうなづけるような気がする。
 愛宕神社の本社ともいわれる社は、
 山城国(京都市)右京区嵯峨愛宕町愛宕山にあり、三代実録 貞観(じょうがん)六年(八六四)の条に、
   「授丹波国正六位上愛当宕神従五位下」
が見え、この神は、
 貞観十四年(八七二)に従五位上
 元慶三年(八七九)従四位下に昇叙されているところをみると、近畿の地には古代から信仰されていた神のようである。
 愛宕山は丹波と山城との国境であり、前の三代実録が書かれた頃は丹波国に所属したものと思われる。
 またこの神は早くから神仏の習合をとげ、神社を奥の院として、「朝日山白雲寺」を建て、迦遇突知神 勝軍地蔵、泰澄大師 不動明王 毘沙門天王を総称して愛宕大権現といったようである。