第二節 伊勢太神宮の御師と大田原

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 伊勢の内宮、外宮には、鎌倉時代に御師(おし)というものが起り、私人庶民のために、奉幣祈祷をするようになった。御師の名は、御祷師(おのりし)からきたものであり、
「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)正月三日条、
 武衛有御祈願之門 奉領所於豊受大神宮給 依年来御御祈祷師、被権称宣光親神主云云。状云。と、
 権禰宣光親神主が、鎌倉将軍家のために、武運長久の祈願をしたことが見えている。私人が祈祷を依頼するときは、そのしるしとして御師から守護札を乞いうけ、これを朝夕礼拝して、神霊の冥助を仰ぐものである。そしてまた御師は、一定の地域のうちに人民と師職とが氏子の関係を結び、毎年その地域の代表者を出張させ、守護札の配布を受け、氏子は御初穂を献進する風習があった。
 下野田は古くから内宮師職佐八掃部の檀那所であり、「伊勢神宮文庫所蔵佐八文書」によると、永正十一年(一五一四)下野の某氏が佐八御師に出した挨拶状がある由である。
 元亀天正(一五七〇~一五九二)の頃には武人の多くが御師の氏子となり、下野の武将も宇都宮氏、小山氏、益子氏、那須氏はもとより、大田原氏もまた、大関氏、福原氏とともに佐八御師の氏子であった。大田原家には、天正七年(一五七九)正月二十三日の御抜文書を初見とし、文禄、慶長にかけて数通の文書が残っている。
 ここにその二、三を掲げる。
芳翰祝着至極候 如毎例 於御神前 被抽御精誠 御幣並御札令頂戴候 殊為御音信 種々送給候 目出度珍重之至候 態と御最花五十疋令進納候 諸餘期来信候 恐々謹言

  天正十四丙戌年弥生十八日
           広徹 書判
  佐八神主殿
       御報
 (天正十四年は一五八六年であり、広徹は山城守綱清の入道名、広徹、広頓ともいった)
 また、綱清の子晴清の書状に、
如毎年 於御神前 被抽御精誠 千度御祓 太麻並三種 被懸御意候 目出度珍重之至ニ候 如賀例 御初穂三十疋 令進獻之候 万吉期後音之時候 不能一二恐々謹言

  霜月十一日    晴清 書判
 
 御祓は、神宮の神号を書いた厄除の御札、太麻は神宮から授ける神符をいう。御祓は古くは十一月(近世は十二月)御師から諸国の氏子に配られ、御祓箱には、土産として熨斗鮑(のしあわび)(長さ三尺余、巾一寸)と新しい暦とが添えられる。
 このほかに鰹節、麩、海苔、白紛、櫛などを添えることもあった。のし鮑は一に長鮑ともいい、古くは打鮑ともいったようで、志摩国から神宮への献上品、近世はさらに、御師から氏子への進物にあてた。
 鰹節、麩、海苔はかつては志摩国の特産物であり(麩は国崎の産、白粉は射和の産であった)後世には熨斗鮑も鰹節も白粉も、そして暦さえ配られなくなった由である。
 広徹(綱清)の書状には「種々送給候」とあり、晴清のものには、「千度御祓、太麻並三種被懸御意候」とあるのは、恒例の御祓と太麻の外に三種の土産品が添えてあったものである。