当寺は、慶長九年(一六〇四)菊帝大納言公実公(成就院殿)の姉君の創建にかかり、正行院日春上人の開山である。
寛延二年(一七四九)身延山久遠寺末となる。享和二年(一八〇二)類焼し、文化四年(一八〇七)に、輦定院日勤上人が再建し、今日に至っている。
山門は領主より寄進されたもので、門中央に城主の定紋がある。この寺は、城主御台所の祈願寺で、歴代の奥方の信仰をあつめたといわれている。
津久井家文書「宿方明細書上帳」には、
一、無除地 江戸之方左 境内 南北弐拾九間半 東西十九間 一、七面堂 四間二 弐間半 一、天神宮 小社 一、稲荷宮 同 一、庫裡 三間ニ 六間 但シ客殿之儀ハ焼失後末出不申候
一、大門 とある。
一、大門 とある。