源義家が奥州征伐のおり勧請したものという(創垂可継)。寛文二年(一六六二)、黒羽藩主法光院高増の九男、一学増俊の創建(大関氏過去帳)であるという。本尊は、木像で丈二尺三寸、雲慶の作と伝えられる。大関家代々これを崇信し、増興は特に「霊感」と題する直筆の扁額を奉納した。また、藩家老の鈴木青蘭(為蝶軒の祖父)筆の「泣地蔵」の額を掲げた。
泣地蔵の由来は、元禄二年(一六八九)行脚の僧がこの地にきたり、地蔵堂荒廃して頑是ない児童らの本尊を、おもちゃにしているのをみて、その冒涜を嘆き携えて奥州会津に至り、一堂に安置したところ、毎夜「田中恋しや」と、泣き声が聞えるので不思議に思い仏像を拝すると両眼に涙のあとがあった。これをみて驚き、正徳六年(一七一六)再び田中の地に安置したと伝えられる。また一説には、元暦年中(一一八四~一一八五)、盗賊が堂に入り仏像を盗み出し、奥州南部に持って行き辻堂に安置したところ、前記のように奇異なことがあったので、再び田中に持ち帰ったという(創垂可継)。思うに、増興の奉額に「霊感」とあるのは、以上の霊異を聞いて、感激したものであろう。増興の襲封は、元文元年(一七三六)(大関氏系図)であるから、田中に持ち返したというのは、元文を去ること、さして遠くはないと思われる。
当堂は、もと上田中にあったが、明治十三年(一八八〇)現在地に移転した。