慶長十五年(一六一〇)に、那須家二十四代修理太夫資晴、烏山城に移るとき当寺を烏山に遷した。慶安三年(一六五〇)正月、美濃守資重が、総寧寺二十世鉄尊和尚、那須家の御持仏薬師如来を本尊に勧請して、玄性寺を再興し中興開山となった。
那須遠江守寺社御改(天和二壬戌世(一六八二)の文書には、
一、寺領 籾百弐拾俵 但シ御蔵方 一、寺門 八十間 四十六間 除地 一、門前 三十四間 拾弐間 一、同 三十間 弐拾間 一、同山林 弐百四十間 百拾三間 同○門前之内自性庵光明寺ニ寄 とある。
境内の那須家暮所は、弘化二年(一八四五)三十代資礼が、小川恩田の御霊神社境内にあった、那須家の墓碑を現在地に移したもので、那須余一歴代の合祀碑・資重碑・資景碑など七基が祀られている。