天正十二年(一五八四)当地第二世能山宗芸和尚、福原安芸守道営を勤化し、花岳正暦和尚を請じて、勤請開山とすると共に曹洞宗となり、大田原光真寺の客末寺となる。山号を福久山と改める。享保四亥年(一七一九)十月、堂宇焼失、現宇は、享保七年(一七二二)の再建である。
那須遠江守寺社御改の文書には、
一、寺領 籾弐拾八俵 一、門 弐俵八月忌料 御蔵出シ 一、寺門 東西十八間 南北二十間 除地外 一、大門通 堅三拾間 横三間 同門前屋敷 東西九間半 南北二十半間 同梅庵屋敷 壱反三畝二十歩 御年貢地 一、山林 東西百弐拾間 南北 東八拾間 西九拾間 除地 同 東西 三拾間 南東八拾間 南西九十八間 除地 同 東西三拾間 南北三拾間 一、同所山林覚 長七拾弐間 横二拾六間 愛宕坂道中 除地 長サ六拾八間 横 四拾八間 同所 藪 八十六間 とある。