寺院名簿には、永正年中(一五〇四~一五二一)僧実澄再興とあり、創建年代は不明である。
那須遠江守寺社御改文書には、
開基甚祐、応永十未年(一四〇三)上境村住尊勝移烏峰一乗院之地 天正年中(一五七三~一五九二)
尊雅移福原金剛寿院
一、寺領 籾五俵 御蔵出シ 祭料 籾二俵 右同所 一、寺内 東西六拾六間 南北四拾三間 一、藪 東西弐拾八間 四拾三間 除地 一、表門前 東西六拾弐間 南北弐拾間 東西弐拾弐間 南北三拾二間 同
一、裏門前 東西五拾六間南北拾七間 南北拾四間 とある。
尊雅移福原金剛寿院
一、寺領 籾五俵 御蔵出シ 祭料 籾二俵 右同所 一、寺内 東西六拾六間 南北四拾三間 一、藪 東西弐拾八間 四拾三間 除地 一、表門前 東西六拾弐間 南北弐拾間 東西弐拾弐間 南北三拾二間 同
一、裏門前 東西五拾六間南北拾七間 南北拾四間 とある。
藤原実也(実澄僧正)大永三年(一五二三)、那須庄八幡村正八幡別当慶城院に来て、聴衆七十余人に理趣純秘鈔を解訳する。同四年(一五二四)灌頂付法入坦の僧徒百二十五人、そのほか真議の奥旨残らず教授する。結衆のうち了辨(桑島)、智空(稲毛田)、理俊(八幡)の徒、遺弟の師と願う。
当院は下野三金剛(桑島金剛定寺、稲毛田金剛王院、八幡金剛寿院)の一つで、上臈三談林の滑統となる。寺記によれば、当時の末寺として全盛時には八十八カ寺をあげている。
神長観音寺 境村宝幢院(末五カ寺) 境村千手院 同宝蔵院 同持福院 同慶光院 同宝照寺 同実相院 小倉東泉院 荒川普門院 七合長寿院 下江川村西光寺 小川宝蔵院 大内松慶寺 湯津上村威徳院 片府田宝寿院(未八カ寺)鍋掛村正観寺 高林東福寺 中川村金蔵院 茨城阿弥陀院 同密蔵院。 孫末寺 神長徳性院 宇田川成就院 鹿畑実相院などがみえる。
また、那須遠江守寺社御改文書には、
片府田延命院 同宝寿院 奥野村地蔵院 上境村正福寺 下境村持福院 同純得寺 大木須村吉祥院 小木沢村他宝院 神長村普門院 熊田村福性院 片平村高徳院 三輪村迎照院 小川村宝光院
などの末寺の名がみえる。