寛永十六年(一六三九)八月、大田原政清霊夢を感じ検地奉行大田原隼人・普請奉行鈴木弥市郎右衛門に命じ、元下町池ノ島愛宕権現を竜尾山に遷し、十一月二十四日遷宮の典を行ない名を地蔵院と改む(印南家文書)。とあるは当院の創建であると思われる。
元禄十三年(一七〇〇)十一月二十五日、聖護院道尊親王、城下地蔵院を直末寺に列し修菊山地蔵院興隆寺と命名し、紋章を用いることを允する。とあるをみて、後に本山修験に改宗したものと思われる。道尊親王御下付品のなかの和歌一首に、
〝君が代は なかからの橋を千たびまで作りかへても 猶やふりなん〟と、
津久井家文書「宿方明細書上帳」には、
一、無除地境内 間口九間五尺 裏行拾四間 除地 一、不動堂 弐間 四面 一、石鳥居 高サ壱丈 一、院宅 九間二六間 玄関 町家並 一、門前 壱軒 一、境内 山之内 愛宕堂 弐間四面 但御許附 一、末社 小宮弐拾社 とある。
本末改めの年代は不明であるが、根生院提出の「門末改帳」(延享二年(一七四五)に地蔵院が竜泉寺末として、報告されている。