第一節 前室庵と遊行上人

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 前室庵は、那須肥前守光資の臣、奥野又三郎近重というものが、少壮軍陣に臨み多くの人命を殺傷し、一且無常寂滅の理を悟って、武門を捨て世を遁れて、庵室を営み、日夕称名一万遍を唱え死者の冥福を祈った。建長二年(一二五〇)四十八歳のとき、浄土僧全海に随い剃髪した。このときに当り一遍上人は念仏弘通、民衆の教化を終生の使命として、全国を遊行し弘安三年(一二八〇)春、奥州勧進の途すがら近重請うて庵室に迎え、これに帰依して弟子となった。上人六字名号と念珠とを授け、また庵号を前京庵と名づけられ、庵地を大手先に設けた。
不退寺由緒にいう。
弘安三庚辰年、一遍上人、奥州御巡行之砌、前室村庵主、一夜止宿奉願上、念仏御弟子に随心す。依て大上人六字御名号 並に御珠数、前室庵号を拝授し賜う。

 上人一代の経歴を書いた「六条縁起」によれば、弘安二年(一二七九)冬、信州善光寺に詣で佐久郡伴野の里(野沢町)に歳を送り翌三年春、奥州に遊行して下野に入り、小野寺村某家に立寄ったとある。不退寺縁起にいう弘安三年とは、このときであろう。
 上人は、前室に群集する渇仰の善男善女に平日と臨終とを区別せず、念々臨終と覚悟して、称名することをすすめ、南無阿弥陀仏六字の名号の紙札を授けたのである。上人の出立に、結縁の衆は随喜の涙を流し、どこまでもと別れを惜しみ、あとに従ったことであろう。上人は進んで関の明神に詣で、神殿の柱に、
 ゆく人を 禰陀のちかひに もらさじと 名をこそとむれ 白河の関
と書きつけた。また弟子真教は、
 白川の関 路にもなほ ととまらす 心のおくの はてしなけれは
と詠んだ。
 その後九年、遊行二世他阿真教上人、先師の旧跡をたどり、諸国を巡教し永仁二年(一二九四)春、上野より下野にきたり、往年先師に随従した前室庵に、近重の遺子「又市近成」を訪い、遂に一寺を創建した。これが蓮台山九品院不退寺である。と伝えられている一に前座道場ともいう。
 前室庵および不退寺と遊行上人との係り合の深い様、藩の応接の様子など、諸家文書などによって如何に鄭重であったかが、うかがえ知れる。
一、明和八年(一七七一)二月二十六日、遊行某上人巡錫して不退寺に来る。

一、寛政四年(一七九二)二月二十七日、遊行某上人不退寺に巡錫す。三月三日迄五日間留錫、四日黒羽に向う。石林より人夫弐人宛詰めきり、翌朝交替す。出発の時、近郷の人馬を申付く。

一、天保五年(一八三四)八月、遊行第五十六世傾心上人、明年二月中巡錫の通知あり藩御吟味役森彦四郎、御作事奉行人見甚五左衛門、不退寺に臨検して普請の箇所を取り調ぶ(不退寺文書)。

一、天保六年(一八三五)三月二日、遊行傾心上人不退寺に留錫す。八日黒羽に向い発錫すべき処病気にかかり、二十二日迄滞錫す。二十三日黒羽に向う(不退寺文書)。

一、弘化五年(一八四八)九月二十三日、遊行上人不退寺に留錫す。檀頭並檀中惣代、喜連川に出迎う。檀徒一泊を乞いしかは二十五日発錫、檀頭等鍋掛駅に送る。