監修のことば




 「大田原市史 後編」の原稿執筆・編さんにあたって、監修せよとのお話をいただき驚いた。クッションをおいてのお話であったが、私などその器でないからである。一応私は寺務の余暇に地方史の調査に努めてはきたが、さしたる業績もなく馬齢を加えてきて、大役を果たせるとは思えないので、辞退したが聞きいれられず、お引き受けするはめになってしまった。自分の勉強のためになどと、老齢になっても好奇心ばかり強いので、こういうことになるのである。私の器量を越える仕事で、この意味では光栄なことで、真剣に努力した積りである。以来約一年、執筆者諸氏の努力により、目標の期限内に原稿は完全に脱稿し、また五月中に曲がりなりに拝見することも完了した。監修の言葉を求められたので、この間に感じたこと二、三について記したい。
 先ず原稿が期限内に脱稿することは珍しい。執筆者は各自すべて職務をもっており、その余暇に執筆されたのであるから、並大抵のことではなかったと思う。それには事務局の正確な企画も預かって原因したと思われる。
 執筆者はすべて大田原市民である。「市民が書く、市民のための市史」という旗印しであるが、文字通りそれが実行され、しかも各分野において精彩を放っている。
 編成の項目がよく立てられており、全体からみて精緻である。従って近・現代史上の諸問題をよく捉えており、余すところがない程である。
 しかも記述にあたっては、地元の生の史料を駆使し、いきいきした行文を生んでいる。地元史料の調査は大変なことであったろうが、よく保存されていたし、市域内旧町村の当時の係にも敬意を表したいし、また使用する側でもよく駆使することができた。それら史料の調査によって、種々項目の具体的内容が把握できたし、また幾多の新事実も発見された。
 上記諸事項によって、市史後編の内容は、まことに豊かな、そして滋味溢れるものとなった。しかし、遠古や中世のことは関心もあり、割合に知られているが、案外に近い時代のことは茶飯事化し、そのうちに忘却の彼方に流されがちである。この意味で、市史後編は現代の市民生活の直接母胎として、親しみある好伴侶となるものであり、大田原近・現代史の正確な知識の源泉として、また未来の発展を生み出す基盤となるものである。
 元来大田原地域は縄文以前から人跡あり、やがては那須野南部の農耕生産力の高い所となり、中世に大田原氏や佐久山・福原そして那須氏等が繁栄した。やがて奥州街道の宿駅となり、郡都の性格が芽ばえ、明治以降は名実共に政治・経済・文化の中心となった。そして今日に及び、さらに発展の歩を進めている。編さん委員会関係各位に対し敬意を表し、ご挨拶といたします。
  昭和五十七年六月六日
                        栃木県史編さん委員会参与
                        栃木県文化財保護審議委員 渡辺龍瑞