藩主初の上京

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大田原藩に於ける戊辰戦争は、明治元年(一八六八)九月二十七日、湯津上村片府田での会津脱走軍との戦闘で終了するのである。
 当時、東北では奥羽諸藩の抵抗が強く政府軍はしばしば苦戦をしたが、新政府は奥羽諸藩を圧迫する役割をもった天皇東幸を推し進め、九月二十日、天皇は京都を出発し、十月十三日には江戸に入り、江戸城を東京城と改めた。
 年齢八歳の藩主大田原鉎丸(としまる)はにわかに上京、「藩御用日記」によると、十月七日暁に大田原を発駕になり、十日東京麻布の江戸藩邸に入った。十二日藩主初めて東京城へ登城、十五日、二十三日と参内し、二十三日には天顔を拝し天杯を頂戴した。越えて一日御誓約を拝戴、二十一日には、従五位下に叙され、官名を飛弾守に任ぜられた。
    大田原飛弾守
  其方儀今度 御誓約相済帰邑御暇ヲ賜候猶前途 皇国御維持之儀深ク御苦慮被為遊候ニ付テハ厚ク藩屏ヲ重シ励精尽力可致様 御沙汰候事
    十一月     行政官
 十一月晦には帰藩の命令があり、翌月九日、東京を出発になり、十三日藩主は帰城したと、藩御用日記には記されている。八歳の藩主は初めての東京城で従五位下に叙され、飛弾守に任じられ、無事任務を果たされたのである。
 天皇東幸は、人心の刷新と、諸藩と庶民へ天皇の権威を示す一種のデモンストレーション的なもののようである。
 翌二年(一八六九)三月、天皇は再び東京に来着、全国の諸侯も東京に召集されてぞくぞく上京、藩主も再度上京、二十三日には東京に着いた。世にいう「東京遷都」である。これを境にして東京は事実上日本の首都として定まり、近代日本の夜明がはじまっていくのである。

大田原一清公(益子佳久氏提供)