一、藩庁 執政 元家老、副執政 元中老、参政 元用人、大監察 元目付、小監察 元徒目付、書記 元祐筆
一、公務局 公議人 執政参政ノ内ヨリ兼、公用人 元留守居、書記 元祐筆
一、民政局 民政監 元郡奉行、民政小監 元代官、筆算方 元勘定役、民事方附属 元郷同心、駅逓方 元問屋場詰、駅逓方附属 元問屋場詰下役
一、市政局 市政監 元町奉行、市政方附属 元町同心
一、寺社局 社寺知事 元寺社奉行、社寺方附属 元寺社同心
一、会計局 会計総裁 但新設 会計判事 元吟味役、会計司 元倹約奉行、出納方 元払方賄役、営繕方 元作事奉行、会計方附属 元小雑用
一、軍務局 軍務知事 元番頭、軍務権知事 元物頭、軍監察 元使番、小隊司、砲隊司、半隊司、砲車司嚮導、伍長、器械方、輜重方、喇叭方、書記
一、学校 文学教師、同助教、武学教師、同助教
しかし、六月十六日大田原藩では、次のように新政府へ届けているのである。
職制
一、執政 旧家老 一等
一、副執政 旧中老 同
家老代勤
奉体認朝政主人ヲ輔翼シ一藩ノ綱紀無不総
一、参政 旧用人 一等
執政ニ列シ一藩ノ政務無不与聞或ハ諸局ノ知事ヲ兼
一、公議人 一等
執政参政ノ中ヨリ出之
一、公用人 旧留守居 二等
書記 四等
筆生 五等
一、家知事 [旧御守役旧御小姓] 頭兼 二等
内家ノ事ヲ掌ル
一、権知事 旧御側役 三等
附局納戸 四等
近習 四等
医師 四等
一、社寺知事 旧社寺奉行 三等
一、監察 旧御目付 三等
一、小監察 旧御徒目付 五等
一、学校
一、文学教師 三等
一、同教授方 四等
一、武学教師 三等
一、同教授方 四等
一、軍務局
一、軍事総裁 [軍務掛リ惣奉行] 一等
軍務ノ事ヲ総括ス
一、軍務知事 一等
一、軍務権知事 旧番頭 二等
一、軍監察 旧使番目附兼 三等
一、司令士 三等
一、嚮導 四等
一、器械方 四等
一、輜重方 四等
一、筆生 五等
一、会計局
一、会計総裁 勝手掛 惣奉行 二等
会計一切ノ事ヲ総括ス
一、会計知事 吟味役 三等
一、会計司 倹約奉行 三等
一、出納方 蔵方賄役兼 四等
一、営繕方 作事方 四等
一、民政局
一、民政監 郡奉行 三等
一、民政小監 代官 五等
一、筆算方 勘定役 五等
一、市政局
一、市政監 町奉行 三等
また諸士の階級を五等に分けたのである。
一等 家老・中老・用人・勝手掛・惣奉行
二等 留守居・御伝役・小姓頭・番頭・吟味役
三等 給人席・御側役・社寺奉行・御目付・文学教師・武学教師・使番・倹約奉行・郡奉行・町奉行
四等 中小姓席・作事奉行
五等 徒士席・御徒目付・代官・勘定役
家老職にあたる執政には、大田原数馬・大田原一学らが起用された。大田原数馬、名は愛徳、大田原最高の老職大田原愛睦、通称主殿の長子で明治元年四月家を継ぐ、千石の禄を食む、一刀流の達人でもある。大田原一学は、名は愛敬、号圭斉、藩主飛弾守庸清の弟三五〇石の老職、元治慶応の間、勝清を補翼し、京師に来往し、藩論を鼓舞して勤皇の気を奮い、我藩を勤皇に組みすべきと大田原藩の危機を救った人物である。明治二年、大田原藩大参事に任せられ、廃藩置県後は藩主に従って上京する。副執政には阿久津正右衛門・山田小主水・阿久津三左衛門の三名、参政には阿久津新五郎・阿久津権六・本多市左衛門ら三名で諸局の知事を兼務した。公議人は大田原隆助等がいる。
このようにして、旧藩主は知藩事に任じて藩務を統治し、旧石高の一〇分の一を俸禄と決められたが、藩士以下の禄制は、各藩に於て適宜に規定することとなり、わが藩は今回の職制改革により、職相当の俸給を定めるべきところ、一事応急の措置が取られ、従前の本禄に対して、割替給米を支給することとなった。
今般諸事追々御改正筋被仰出候ニ付テハ差向各等ノ諸士江御給米一時救急ノ策ヲ以テ当分ノ処別紙ノ通御割替被仰出候
巳八月
(別紙)
当分御給米割替左ノ通
一、両家 壱ケ年 弐拾五俵
一、御蔵米百石ヨリ三百石高迄 壱ケ年弐拾俵
一、弐拾俵高ヨリ弐拾八俵高迄 壱ケ年拾六俵
一、四等 壱ケ年 拾弐俵
一、五等 壱ケ年 八俵
一、石取ヨリ五等迄部屋住ニテ被召出候者是迄ノ通
一、小頭以下諸奉公人 壱ケ年 六俵
一、小頭以下諸奉公人部屋住ニテ召出是迄ノ通
一、上下切米是迄通(金にて渡される)
一、御役料追テ御割替仰出候事
一、指南扶持等之儀ハ諸稽古取立ノ上追テ被仰出候事
一、来ル九月ヨリ右給米割替被下候事
(「大田原藩取締方日記」)
大田原藩印
なお、七月旧藩の職員を廃して、さらに大小参事以下の職を置き、その給禄を定めた。
同年七月復タ一般ノ定則ニ依リ職制ヲ改定スル左表ノ如シ而シテ其年俸 差等表中ニ詳カナリ ハ本藩ノ適宜トス
知事 十一石二斗五升 一名
大参事 五石四斗 二名
権大参事 四石九斗 一名
小参事 四石五斗 四名
大属 四石五斗 八名
小属 三石一斗五升 四名
権少属 二石七斗 十四名
小計 三十四名
軍務係
軍務判事 九等 二石二斗五升 一名
軍監 十等 一石三斗五升 一名
小隊司 十等 一石八斗 二名
砲隊司 十等 一石八斗 一名
半隊司 十一等 一石三斗五升 二名
嚮導 十二等 九斗 四名
砲車司 十二等 九斗 二名
喇叭長 無等 一石三斗五升 二名
伍長 同 四斗五升 八名
器械掛 同 九斗 二名
輜重掛 不詳 二名
軍医 同 二名
教官
文学教師 十等 二石七斗 二名
同助教 十二等 九斗 三名
武術教師 十等 一石八斗 三名
同助教 十二等 四斗五斗 四名
捕亡吏
捕亡小頭 無等 三石六斗 一名
捕亡 同 九石但十一人分十一名
探索方 同 九斗 二名
村吏
割元 二石二斗五升 上郷 二名
年寄 一石三斗五升 同 二名
名主 九斗 上郷 五名 下郷 毎村一名
組頭 不詳 中郷 毎村一名 西郷 毎村一名
此ノ他民事会計監察駅逓等ノ各課ニ附属数名 民事五人、会計三人 監察二人、駅逓一人 ヲ置キ、年俸各金九円ヲ給ス
(「栃木県史料八一」)
さらに、政府は禄制の改制を行うのである。これにより大田原藩は次のように改めた。
禄制
明治二年己巳十二月政府令アリ、列藩ノ禄制ヲ改革セシメラル、本藩因テ士卒ノ秩禄ヲ改定スル
華族
改正常禄 現米 二百五十三石
旧禄 一万千四百石
旧禄 現米 二千五百二十八石四斗九升一合
人員 一名
士族
改正常禄 現米 十一石二斗五升
旧禄 自九百六十石 至百石
旧禄 現米 自二十七石六斗二升四合一勺 至十一石二斗八升五合八勺
人員 二十五名
改正常禄 現米 九石
旧禄 自二十八俵 至二十俵
旧禄 自十二石六斗 至九石
人員 三十名
改正常禄 現米 七石二斗
旧禄 十六俵
旧禄 現米 七石二斗
人員 三十七名
改正常禄現米 五石四斗
旧禄 十二俵
改正常禄 現来 五石四斗
人員 三十五名
卒
改正常禄 現米 二石二斗五升
旧禄 五俵
旧禄 現米 二石二斗五升
人員総計 百六十名
十二月六日には併せて吏員を届け出ている。
大参事 大田原一学 阿久津正右衛門
小参事 大谷長太郎(公用人兼)
伊王野守人(家令兼)
阿久津丈右衛門(会計総裁)
藤田六郎(会計知事兼)
金枝仲(公議人)
阿久津采女(社寺知事軍務督五等頭)
権小参事 権田等(民政長)
江連幸三郎(同)
松本豊之助(市政長)
御側見習若色退蔵・書記内山藤五郎・御取次河野育三郎・近習見習阿久津真太郎・家禄会計司郷村取締久島惣一郎・相山羊三・太田惣之助・駅逓調役羽柴元蔵等が就任した。
大参事・小参事・権少参事等は、藩士族の投票によって選出されたのである。
明治三年(一八七〇)八月、さらに官制改革を行ったのである。
藩庁
知事
大参事 弐人
藩政ノ諸務各分掌小参事ニ委任スト雖モ其大体大事ヲ総識スルナリ総務ニ参判シ議員ヲ包テ東京へ交代ス
権大参事 壱人
公議人
朝命ヲ奉承シ国論ヲ献議シ兼テ藩政諸務ヲ総識スルハ大参事ニ同ジ
少参事 壱人
藩内ノ事務ヲ分掌シ其局ニ出頭スト雖モ総務ニ列判ス
筆生 弐人
監察局
大監察 弐人
諸局ノ命令ヲ伝達シ上下内外ノ非違ヲ監察シ刑法糾弾ヲ掌ル
小監察
内外非違ヲ見分シ大監察ニ達ス又監察ノ命ヲ受不時ニ内外ヲ巡察シ検使等ヲ勤ム
公務局
議員 壱人
正権大参事之ニ当ル
公用人 壱人
邸内ノ庶務ヲ識シ藩事ヲ上禀スルヲ掌ル
筆生 壱人
民政局
少参事 壱人
民政ヲ総括判授ス
民政長 弐人
民政ヲ参判シ管内ノ図帳民戸名籍ヲ知シ田宅、租税山沢開墾水利道程橋梁堤防駅逓等ノ事ヲ掌リ及社寺ノ事務ヲ判ズ
民政小監
民庶ヲ扱ヒ郷里ヲ逓観シ戸籍ヲ正シ農事ヲ催務ス
筆算頭取 壱人
管内ノ榜示図帳ヲ修メ租税ノ事ヲ掌ル算計記録所ノ事ヲ指揮ス
地利方
山林水利道橋開墾等ノ事ヲ掌ル
駅逓方 壱人
駅逓所ヘ出頭シ人馬継立ノ多寡甲乙ヲ点検シ局費ヲ監督ス
筆算 四人
捕亡 卒四人
駅逓従事 同四人
会計局
少参事 壱人
倉庫俸禄内外ノ用度ヲ勘解シ金穀出納及物産営繕等ノ事ヲ総括ス
会計司 弐人
会計ヲ参判シ倉庫俸禄内外ノ用度金穀出納ヲ勘督ス
倉部方 弐人
廩米出納ノ事ヲ掌ル
金部方
金銭出納算計営繕ノ事ヲ掌ル
生産方 壱人
営繕方
会計司ノ命ヲ受営繕ノ事ヲ商量ス
(「大田原藩諸事手鑑」)
であった。これに合せて官吏の年俸を規定したのである。
米拾弐俵 正権大参事
同拾俵 少参事
同九俵 民政長
同八俵 大監察
同八俵 会計司
同七俵 民政小監
同六俵 筆算頭取
同五俵 小監察
同六俵 筆算
同六俵 倉部方
同六俵 金部方
同四俵 筆生
同四俵 駅逓方
(「大田原藩諸事手鑑」)
これらは、八月より支給されたのである。目まぐるしい変革に藩士は次のように記している。
藩ノ職制ヲ一変シ正権大参事以下官名ヲ改メ且ツ一藩士族ノ投票ヲ以公論ノ帰スル人物ヲ公撰ス可キ旨藩知事ヨリ達シアリ此頃ヨリ士民ノ開化少シク進歩シ圧制束縛ヲ嫌忌シ不覇独立ノ説ヲ首唱スルモノアリ
(阿久津モト文書)
と当時の様子を伝えている。
明治三年(一八七〇)九月二十日、引き続き政府は藩政改革を布告し、職制・海陸軍費・公廨費・家禄などの大本を示したのである。
藩制
一、藩分為三物成拾万石以上ヲ大藩トシ五万石以上ヲ中藩トシ五万石未満ヲ小藩トス
一、石高ハ草高ヲ不称物成ヲ以テ可称事但シ雑税金石ハ両立ニテ本石高ニ可結込事
一、藩庁
知事
大参事 不過二人
権大参事 有無其便宜ニ従ウ
少参事 不過五人
権少参事 有無其便宜従フ小藩ハ是ヲ置ス
以上掌見職員令
大属
権大属
小属
権小属
史生
以上分課専務スル所アルヘキ譬ハ会計軍刑法学校監察ノ類ノ如シ
右官員ノ多寡大中小藩ニ従テ可為適宜事
庁掌
使部
一、藩高
譬ハ現米拾万石
内 壱万石 知事家禄
残 九万石
但シ廨諸費常額追而可被相定候得共当分右之通
内 九千石 海陸軍資
但シ其半ヲ海軍資トシテ官ニ納メ半ヲ陸軍資ニ可充事
残 八万千石
但シ公廨入費士卒被ニ充ヘシ尤精々節減シ有余ヲ以テ軍用ニ可蓄置様可心掛事
一、官禄藩々之適宜ニ任スヘキ事
一、功アッテ禄ヲ増シ罪アッテ禄褫キ及ヒ一切ノ死刑等ハ朝裁ヲ請可キ一時ノ賞並ニ流以下ノ刑ハ収禄シテ年末ニ可差出事
一、士族卒之外別ニ級アル可カラサル事
一、正権大参事之内一人在京集議員開院之節テ可為議員事
但シ半年交代可致尤公議人称呼廃止ノ事
一、公用人之称呼ヲ廃シ其事務之大小ニヨリ参事或ハ属等ニテ用弁ヲ為サシムヘキ事
一、知事朝集三年一度年ニ四季ニ分チ滞京三ケ月タルヘキ事
但国家重大ノ事件ニヨリ朝集ハ此限ニアラス
一、歳入歳出年々十月ヨリ九月迄ヲ限リ分界ヲ立別紙雛形之通明細書ヲ以テ年末ニ可差出事
但シ雛形ハ追而可相達事
一、従来藩債ハ藩之石高ニ関スル事ニ付其消之法ハ藩債之総額ニヨク支消年限ノ目途ヲ立知事家禄士卒禄其他公廨入費等ヨリ分賦シテ可償却事
一、従来藩造之紙幣向後引替済之目的ヲ可相立事
庚午九月
(阿久津モト文書)
藩制(阿久津モト氏蔵)
この藩制改革布告には、士と卒以外の等級をつくるなとあったが、しかし、廃止の告示の内容は次のようなものであったのである。
一、諸役員官階相当別紙ノ通御改正相成候事
一、諸役員勤怠能否ヲ以テ黜陟ヲ行フトイヘトモ世録増減ハ容易ニ不被為行候事
但役給ハ相当表ノ等級ニ照準シ宛行ハルヘキ事
一、士族等級従前三席ノ称呼ニ廃止セラレ候事
但シ閥閲門地ハ既ニ朝廷ニ於テ御廃止相成候間今度御改正ニ付テハ悉ク廃セラレ候ヘトモ座次ハ給禄ノ多寡ヲ以テ之ヲ定ムヘシ尤三席ノ称呼ハ廃止セラルト雖共上中下之順序ハヲノツカラ定分有之儀ニ付以来上ノ間詰中ノ間誥下ノ間詰ト誥席ノ称ヲ以テ区別ヲ立テ藩庁取扱振リハ都而従前ノ通リタルヘシ且着座ノ順序ニ随テ上下ノ分有之トイヘトモ拝官ノ撰ニ至テハ次不次ヲ不問其人ノ才望器宇ニ従テ下座ノ士タリト雖トモ直チニ超擢登庸アルヘキ事
一、部屋住ヨリ兵士江召出サレ候分ハ召出サレノ先後ヲ以テ座次相定メ其父ノ職任等ニ依テ上下ノ分ヲ不可立事
但シ上ノ間詰ノ嫡子ハ上ノ間着座タルヘシ中ノ間下ノ間トモ同例ノ事
一、士族世録ハ廃セラレスト雖トモ以来年令相当三代官ニ拝セサル輩ハ減削セラルヘキ事
一、従前五等ト唱候下ノ間詰ノ分ハ素ヨリ一代限リノ儀ニ付継目ノ節ニ至リ其時ノ庁議ヲ以テ何分ノ御沙汰可有之事
但シ継子無之其身死去候トイヘトモ家族ノ者江三ケ年ノ間御扶助被下候ハ従前通リタルヘキ事
一、百姓地ヨリ卒江出勤ノ向キハ悉ク帰農タルヘキ事
但シ其任相当ノ用弁ニヨリ勤仕ノ向キハ此限ニアラス
一、士族ノ内タリ共其都合ヲ以テ農商等ニ帰シ度志願ノ者ハ願ノ品ニヨリ御詮議ノ上可差免事
一、士族ノ内其都合ヲ以テ市在住居イタシ度キ向キ勝手次第可差免事
但願ニ寄テ市在住居ノ向キハ給禄都テ三分一タルヘキ事
一、軍務役員等級ハ兵部省ヨリ一定ノ御規則御布告マテハ従前ノ通リ可相心得旨ニ付官階ノ等差ハ政庁ノ官階ニ照準シ当分別紙相当表之通タルヘシ座次ハ新古ヲ以テ定ムヘキ事
庚午 十月
(阿久津モト文書)
これに対して藩知事から次のような告示が出されている。
御告志
封土版籍ヲ奉還シ余ハ知事ノ大任ヲ蒙ル然ルニ幼稚ノ身兼テ申ス如ク何一ツ為スコト不能只汝等ノ忠精ヲ以今日奉職シ来ル也且汝等祖宗以来股肱ノ臣家又夫々勲旧功労ノ家筋モ有之余心ニ於テ聯舎クヘキニアラズ其因ミイカデ忘ルベキヤ惟余雅ノ身深ク依頼ベキ者ナケレバ何ヲ以テ今日ニ遇ハン汝等庶幾クハ余ノ情ヲ察シ世ノ移リ時換ルト雖永ク余ヲ輔ケテ〓勉努力センコトヲ
附言従前家臣ノ例ヲ行フニアラザレバ其旧格等ハ悉ク廃スレドモ余カ心ニ於テハ依然タル臣家ノ因ミイカデ廃スベキ依テ何レノ向モ手元ニ於テハ従前ノ通リ夫々ノ取扱可致事ニ候ヘバ一藩中ニ於テモ之ヲ察シ官員兵士ノ差等ナク平日ノ交リ相応ニ心得有ベキ事ニ候也
庚午 十月
(「大田原藩諸事手鑑」)
藩知事の告示に小参事大谷長太郎は次のように記している。
大谷長太郎
王政復古百度維新ノ御時 朝廷ニ於テハ既ニ去〻辰年中摂籙門流ヲ廃セラレ搢紳武弁堂上地下ノ別チナク上□尊貴ノ摂家ヨリ下小藩ノ我等ニ至ルマテ同シク華族ト可称ノ旨仰出サレ候ヘハ当藩ニテモ速ニ変革ヲ施シ旧来ノ門地家格ヲ廃シ 朝旨ニ遵奉スヘキ勿論有之処旧誼ノ捨难キ断然コレヲ当日ニ行フアタハス遂□因循今ニ至ル然ルニ今度藩制規則相立チ士卒二等ノ外別ニ級アルヘカラサルノ 御主意更ニ仰出サレ候上ハ是マテ勲旧ノ家筋ヲ以テ家格遺シ置候処以来廃棄イタシ候実ニ不本意遺憾ノ至ニ候ヘモ已ムヲ得サルノ勢ニ有之候条篤ト時運ノ沿革ヲ相弁ヘ此旨領得イタス可ク候事
庚午閏 十月
(阿久津モト文書)
かくして、中央政府の下達の趣旨にそって大田原藩の「藩治体制」は、しだいに確立されたのである。
明治維新にあたり大田原藩も、藩士一同一致協力して幼主を補翼し、大いに言路を開いて、門閥政治の弊を打破し、広く人材を抜擢・登用して進取的政策を行おうとしたのである。