廃藩置県

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明治二年(一八六九)六月、版籍奉還によって、全国の土地と人民は朝廷に帰したが、当時藩知事は旧藩主であり、部下の役人は旧家老以下の旧臣であったため、藩主と領民との関係は依然として変りがなく、ほとんど刷新はない状態であった。
 明治四年(一八七一)七月十四日、明治天皇は在京の五六藩知事を召集し、廃藩置県の詔書を発布したのである。ここに、全国は三府三〇二県の行政区画に改められ、地方長官を任命して各管内の政務をとらせた中央集権化へ改革が推進されるのである。
 大田原藩知事大田原勝清は、七月十五日を以って本官を免ぜられた。
 
      大田原藩知事大田原勝清
  免本官
    辛未七月   太政官
  今般諸藩ヲ廃候ニ付テハ知事ノ面々御用有之候条九月中東京ニ罷在候様相達候事
    辛未七月
  今般藩ヲ廃シ県ヲ被置候ニ付テハ追テ御沙汰有之候迠大参事以下是迄通事務取扱可致事
    辛未七月
(「大田原藩諸事手鑑」)

と指令が出たのである。よって大参事大田原愛敬は一藩に次のような通達書を発したのである。
 
此度一般ノ御制度ニ御改革相成候儀ハ諸藩同一時運ノ然ラシムル処勿論ニ有之候ヘ共御藩ノ儀ハ従五位様御幼冲ニテ御奉職以来万端参事江御委任相成居候処諸官員ヨリ非役ノ向ニ至マテ偏私阿党ナク心ヲ公平ニ存シ行ヲ忠厚ニ基ツケ能ク其職事モ密勿勉励一藩協心御幼冲様御成長ヲ奉待候処世務ノ変換遂ニ今日ノ姿ニ立至リ四百年来御因襲ノ御旧土ヲ御離以来東京御永住トナラセラレ御内家勤ノ向ヲ殊ノ外当地常住勿論ノ儀左候ヘハ永年ノ後ハ自然旧君臣ノ情誼モ随テ疏遠ニ趣候ハ勢ノ已ムヲ得サル処トハ申ナカラ一朝右体隔離ノ姿ニ立至リ候儀ハ実ニ遺憾無量此事ニ有之候依テ責テハ将来如何体ノ形勢ニ立至リ候共御旧臣ノ面々ニハ分限ニ応シ夫々産業ヲ可起基座ヲモ立被下百世ノ後モ旧君臣ノ御因ミノ遺緒ヲシテ絶エサラシメ度トノ御哀情ニ被為在候ヘ共兼而会計局御逼迫ノ儀ハ各モ心得居候通リノ次第昨秋以来御改正ニテ夫々御規則ノ処ハ僅ニ相立候姿ニハ有之候ヘ共未其名有リテ其実ナク此上両三年モ御規則被相行候ヘハ名実倶ニ挙リ聊ニテモ上下肩ヲ憩ヒ候様被為成度御素志ノ処俄ニ今般ノ御変革相成候テハ万端御素志モ御貫徹不相成於政庁モ深ク当惑罷在候尤朝廷上ニ於テモ夫々至当ノ御所置可被仰出儀ニ付従五位様厚キ哀情ヲ奉体シ無源ノ動揺不相生将来ノ御所置可奉待候猶銘々見込ノ廉モ有之候ハハ無遠慮可申立候此段相達候事

     辛未七月
(「大田原藩諸事手鑑」)

 九月十九日、大田原勝清大田原城を発駕して上京の途に就いた。領内の士民、数百年以来世襲の藩主に別離を惜しみ、金品を餞贈し、城下の老若男女沿道にひざまずき、みな涙を流して行を送ったと、荒井白井家文書に記されている。
 
大田原飛弾守丹治勝清御年十三歳ニ而同九月十九日御在所御立貫東京江御発駕ニ依リ御領内在所共ニ格合有之モノハ御共八木沢村境ニ而御別ニヨリ殿様御言葉ニ三百余年来領主百姓ト馴染ム所別後ハ領内一統無事ニ暮セト被仰候事。

大田原旧藩士の手記には、
 
九月十九日旧大田原藩知事従五位大田原勝清君朝旨ヲ以テ上京ス此時管内ノ士民数百年来ノ藩主ニ離別スルヲ以往々涙ヲ流スモノアリ

(阿久津モト文書)

とある。これより先、勝清は正月領内の上郷各村を巡見して金品を賜い、二十日大田原氏発祥の地町島大田原家墳塋にもうで、さらに白井忠助方を本陣として荒井・町島・和久・戸野内・岡・今泉・船山・竹野内・吉際・寺方・松原各村戸主並びに七〇歳以上の男女を召し出し、御酒代として、青差若干文ずつをくだされ、高齢者には同二貫文ずつを贈った。九月二十日には、藩庁に町年寄並村組頭を召集して一戸当りに青差三〇〇文を贈られたのである。
 旧藩主上京以後は、大参事大田原愛敬を中心に旧大田原藩の上士が県政を担当した。
 明治四年廃藩置県時の人口・財政を見ると、
 
  人口
  華族
    戸数 一戸
    人員 五名(男二、女三)
  士族
    戸数 百二十七戸
    人員 六百四十八名(男三百、女三百四十八)
  卒
    戸数 五十三戸
    人員 百三十五名(男七十一、女六十四)
  平民
    戸数 二千百六十五戸
    人員 一万千六百八十三名(男五千九百九、女五千七百七十四)
  神官(社数不詳)
    戸数 三十戸
    人員 百七十五名(男八十七、女八十八)
  僧侶(寺二十二)
    戸数 二十二戸
    人員 五十一名(男四十八、女三)
  修験
    戸数 三戸
    人員 八名(男五、女三)
  総計
    戸数 二千四百一戸
    人員 一万二千七百五名
      男 六千四百二十二名
      女 六千二百八十三名
(「栃木県史附録」)

  会計(明治三年十月ヨリ同四年九月マデ)
  歳入
   米 二千九百十二石五斗五合六勺七才
   大豆 九十四石八斗八升七勺五才
   荏 二百石八升二合九勺三才
   金 八千七百六十三円二十三銭四厘九毛
  歳出
   米 二千九百十二石五斗五合六勺七才
   大豆 九十四石八斗八升七勺五才
   荏 二百石八升二合九勺三才
   金 八千八百七十六円十銭一厘三毛
    内
    士卒改正常禄 千二百八十二石五升
    官禄 二百六石五升、金九十九円
  藩債
   金 三万七千四円五十五銭二厘六毛
   米 十石七斗四升七合
(「栃木県史附録」)

 明治四年七月廃藩置県により大田原県となるが、これは同年十一月宇都宮県に合併されるまで四か月間続いているのである。藩士は士族、卒族合せて二二〇人で、これらの人々に一、二八二石五升の家禄が支給された。藩財政の根幹をなす貢租については、四公六民で当時においては旧藩時代の貢租率をそのまま負担させているが、平均的な貢租率と思われる。このようにして領内各地より徴収された年貢の総収入額を金額でみると、八、七〇〇円弱の財政規模である。藩以来の負債は累積で三七、〇〇〇余円で年総収入の四・二五倍、財政の窮乏は筆舌に尽しがたいものとなっている。しかし、政府の財源も地租のみに依存している状態を考えると、大田原藩の財政窮乏は決して例外的なものではなく、多くの藩が財政逼迫で苦しんでいたようである。一般的には、藩債は明治政府が肩代りをしたといわれている。
 いずれにしても、この段階では名称も大田原県といわれるように、大田原藩とは異なって藩自体の行政機構化が進んでいたのである。