戊辰戦後の大田原藩出兵と廃止

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戊辰後の大田原藩の出兵は、前後二回行われた。最初は、明治二年(一八六九)四月日光県の要請による出兵で、奥州須賀川方面への出動である。
 岩代国の白河・浅川・須賀川近郊に凶徒多数集合し住民の家財を掠奪、放火をほしいままに行い、その勢いまさに四隣に拡大しようとの最悪の事態に至った。それで日光県では、わが藩及び隣藩の黒羽藩・磐城国守山藩の三藩・その他の兵の出兵を乞い、それによるものである。
 四月二十三日、わが藩においては、物頭藤田吉亨、組頭伊藤喜良等銃卒一小隊を率い、二十四日須賀川に到着したが、凶徒皆すでに解散して事なく、兵を収めて帰陣したのである。
 二回目の出兵は、同年十月岩代国巡察使より、同国会津郡白岩・水門両所の取締を命ぜられての出兵である。
 旧会津藩脱走の徒、会津近郷になお潜伏中との情報に、岩代国巡察使は各所に見張所を設け、脱走兵の急襲に備えて警戒に当たっていたが、わが藩にも、その警備の命令があったためである。
 わが藩においては、使番平野元亨等二〇余名がその任に当たった。越えて三年九月に至り、番頭阿久津春和・銃手長大田原保盈・組頭伊藤喜長等をして兵卒半小隊を率い、会津郡芦野原関門の警備に就いたのである。なお、白岩・水門の両所にも兵を分けてこれを巡警する傍ら、所管内の戸数人口等の調査をも行ったのであるが、兵部省若松出張所よりの達しに、同年十一月に至り解兵の命を受けて、二十五日を以てわが藩兵を帰陣させたのである。
 のち、明治四年(一八七一)の廃藩置県により兵制をすべて解いたのである。
 
今般廃藩被仰出候ニ付テハ従前所管ノ常備兵総テ解除ノ上全国一途ノ兵制御改正可相成候処差向内外警備ノ為別紙ノ通各所ノ鎮台ヲ被置管地ヲ被定候条此旨相達候事

    辛未八月   兵部省
  東京鎮台  常備歩兵十大隊
   直管
    武蔵上野下野常陸上総下総安房相模伊豆甲斐駿河(以下略)
  元小藩トテモ地方ノ形勢ニ依リ県下多少ノ兵隊備置候儀モ可有候事
但壱万石以下ノ諸県兵ハ解隊被仰付候依テ大砲小銃都テ兵器ハ当分其県庁□可収置何分ノ儀ハ追テ可□仰出候事

(「大田原藩諸事手鑑」)

 明治三年(一八七〇)九月、藩制改革によって諸藩常備兵は一万石につき六〇人と定められたが、これによって、大田原藩の兵二小隊余は廃止されたのである。