権田長高・江連兼真等をして専らその主任者とし、相山義倶・太田義明を以て副とした。初めの旧藩封内の土地を検地以来百有余年を経て、貢租徴収の際不便をきたし、これを改めて、一定の租法により軽重の差を公平にするために実施されたのである。
権田長高等は下吏を督励して、まず大田原城付近の各村から開始し、漸次東郷(河原町・荒屋敷・上奥沢・奥沢・下深田・明宿・小林・上ノ坊・町島・荒井・柳原・和久・今泉・岡・戸野内・小中沢・五五郎内・袋島・竹野内・舟山・吉際・寺方・松原・上深田・堀米・久保・乙連沢・小滝・狭原・狐島・新道・浅野・山中・七軒町・泉・平林・刈切・大和久・川下・荻野目・西戸野内・五輪塚・原町)四三村、中郷(沼ノ袋・石林・高柳・富山・南郷屋・河原向新田・東関根・関根・下井口・上井口・槻沢・東遅沢・下中野・上中野・島・方京・西遅沢・和田・和田新田・波立・塩野崎・前中内・笹沼・鹿崎・無栗屋・洞島・上郷屋・箕輪・中内・箭坪・鳥野目・高林・小結・塩谷郡遅野沢・折戸・横林・蟇沼・上横林・接骨木)三九村、西郷(下石上・上石上・塩谷郡大貫・上大貫・高阿津・金沢・関谷・宇都野)八村等に実施し、下郷(芳賀郡祖母ケ井・稲毛田・上延生・七井・大平・芳志戸・椎貝・上椎貝・那須郡鴻野山・八ケ代・大金・小塙・入江野・都賀郡小薬)一四村は旧検地によった。中途に権田長高職を転じ松本寛治に替ったが、翌四年夏期に至りすべて作業が終了したのである。
これによって大田原県では地租の徴収を行ったのである。次にその概略を記すと、
草高
旧 一万千四百十六石八斗七升七合
改 一万五千五百七十六石七斗二升三合一勺
段別
旧 二千六百九町歩
内 田 六百五十町五段八畝歩
畑 千九百五十八町四段二畝歩
改 二千七百三十七町七段八畝二十四歩
内 田 七百四十六町三段三畝二十四歩
畑 千九百五十一町四段五畝歩
定免
田 上 一石二斗、中 一石、下 八斗
畑 上 八斗、中 六斗、下 四斗
正租
米 二千三百六十九石一斗七升六合六勺
大豆 九十五石四斗二升三合八勺
荏 二百二十二石五斗一升二合九勺
畑税
金 千百二十四円十三銭五厘
雑税
金 二百二十五円七十九銭一厘
定免 四公六民
(「栃木県史料八一」)
大田原南町北町村林永調帳