金札の流通

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明治二年(一八六九)大田原藩では、藩札を発行している。現在までに発見されているのは、「銭札四百文」、「金札壱朱」(吉川恵造所蔵)の二種の藩札である。
 藩札は、諸藩が財政窮乏救済のため発行された紙幣で、明治初年までに二四四藩が発行したが、明治二年新政府は暫定的に藩札の発行を認めたが、同四年七月廃藩置県後租税上納のほかは流通を禁じ、同五年より新紙幣との交換を開始、明治十二年(一八七九)回収を終了、交換額累計は約二、五〇〇万円にのぼった(「角川日本史辞典」)。したがって、残存するものは少なく、目下のところ皆無に等しい。
 大田原藩では、何種類の藩札を発行したか、総金額はいかほどであったか、その記録を見出すことはできない。
 新政府は、財政の危急を救うために、一般に金札と称する最初の政府紙幣、太政官札が発行された。
 明治元年閏四月、新政府は金札(太政官札)を発行して歳出を補い、さらにこれを列藩以下に貸与して、産業を興隆させることを定めた。通用期間を一三か年とし、各藩へは一万石に一万両の割合で貸付け、また一般農商には直接貸付けて、殖産興業の奨励のためにあてしめたのである。同二年五月には四、八〇〇万両の金札が発行されたが、不換紙幣であったために流通は困難を極め、その価値も非常に下落し、金札百両に対して正貨四〇両の割合で交換されるにいたった。このために各地で正貨との比率が錯綜し、経済混乱を巻き起こしたので明治二年四月には兌換紙幣化され、また新紙幣・公債とも交換されるにいたるのである。

大田原藩札(吉川恵造氏蔵)

 大田原藩においては、明治三年閏十月十七日、太政官より石高に応じて貸付けられた金額の返納金遅引督促の文書が残されているので、次に記す。
 
          大田原藩
石高割御貸渡之金子巳年分年割上納遅延ニ付是迄大蔵省ヨリ段々相達候旨モ有之処今以等閑打過御規則ニモ相触不都合ノ事ニ候条来ル十二月十日迄ニ必上納可致事

    閏十月十七日
(「栃木県史料八一」)

 藩札(木版刷)・太政官札とも和紙に簡単な印刷の方法であったため、当然、起りうるべくして起こった事件が、官札贋造事件である。
 大田原藩では、明治三年十月領民五人を官札贋造を理由に処刑している。一名はさらし首、四名は斬首と厳しく罰しているが、これは贋造紙幣の乱発によって経済混乱を憂えた藩当局の処置である。また、金札の信用のなさが銭相場の高騰をまねき、そのため生活困窮に陥った大田原藩の村人の生活と、貨幣政策の混乱から圧迫を受けたことを事件は物語っている。
 五名中一名は寺の住職で、贋造紙幣製造にその院内を貸し与え、謝金を取って、飲博淫靡をほしいままにしていたと記されている。