日光県の成立と大田原

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新政府がどのようにして村々を支配して行ったか、市域の実態のなかでみてみよう。
真岡県の成立は明治元年(慶応四年 一八六一)六月四日である。知県事は佐賀藩士鍋島貞幹(後、幹と改む)が、真岡代官の跡をうけて知県事となった。市域村々のうち真岡県に所属した村は、かつての天領(幕府直轄領)の村であった鹿畑・三斗内・鷹巣・練貫・市野沢・八木沢・中居・大神・福原(三給地)などの九か村である。これらの村々は、同二年七月二十日をもって、同二年二月十五日に成立した日光県に合併された。日光県には新たに、かつての旗本領が編入されたのである。編入された村々は、佐久山福原四郎知行所であった佐久山宿・平沢・薄葉・藤沢・滝沢などの五村、その他の旗本久世平久郎外一二名の知行所である宇田川(三給地)・川下・奥沢新田・倉骨・小種島(五給地)・赤瀬・小滝・三色手・桜井・刈切・平林・堀米・上沼・青木若目田(二給地)・奥沢・荻野目・乙連沢・滝野沢・岡和久(三給地)・大和久・上奥沢・久保などの二二村、合せて二七か村である。そのほか市域には黒羽藩領の北金丸・南金丸・羽田らの三か村に大田原藩領の村々(大田原南町・大田原北町・上石上・下石上・西戸野内・沼野袋・今泉・河原向新田・戸野内・五倫塚・原町・岡・寺方・松原・竹の内・吉際・船山・荒井・中田原・七軒町などの二〇村)などがあったのである。従来の天領・藩領・旗本領の複雑な錯綜支配に代って日光県支配地と大田原・黒羽藩領とに統一されつつあったのである。藩領はそのまま同じ支配地を所領としていた。日光県の成立によって旗本領及び天領に関しては、従来の一三人の旗本と一代官の個別支配が統合されることになった。

羽田村旧領主石高届書
(阿久津モト氏蔵)

 このように市域村々の過半の地を支配する日光県には、従来の真岡知県事の鍋島貞幹が知県事に就任した。判知事には佐賀藩士藤川為親(のち栃木県令)と佐賀藩士柳川安尚・角田務行らが中心位置を占めていた。本県出身者は、早川元信(宇都宮藩士)・高塩貞志(喜連川藩士)・渡辺迈(壬生藩士)・伊沢政留(石橋宿商)・倉持盛明(卒島村農)らなどが登用されている。
 鍋島知県事の役所は、最初宇都宮城内に置かれたが、八月には仮陣屋を石橋宿開雲寺に開き、のち日光旧日光奉行所跡に本庁が置かれ、石橋役所をその支庁としたのである。鍋島知県事が最初支配したのは、下野国内天領の八五、〇〇〇石余である。那須郡内を示すと次のようである。
        那須郡
  高 一万六千百四十九石一斗六升一合八勺
(「栃木県史 史料編・近現代一」)

 この他さらに旗本領や日光神領を加えると四〇万石ほどにもなり、支配した地域も全県下に散在してかなり入り組んだ地域になっていたのであった。県の機構も当初は記録・戸籍・聴訟・出納しか置かれていない。