日光県の村落

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日光県の村々は直接新政府の支配する地域であるが、明治元年(一八六八)閏四月二十七日先に郷帳村鑑帳調査の布令が出されるや、大田原藩近隣天領等の各村よりその調書が大田原藩に提出された。当藩では処置について下総野鎮撫府に指揮を請うているのである。
 
諸国万石以上以下私領并寺社領共是迄幕府ヘ差出候振合ヲ以テ村方帳写相添急速民政御役所ヘ可差出旨被 仰渡承知奉畏候且元郡代元代官支配所藩々ヘ取締被 仰付置候郷帳村鑑帳共右写相済前同様差出候様御預リ所無之向ハ其旨可申出被 仰渡右者鉎丸ヘ 王政御一新之折柄万民之疾苦不立至様領分近辺旧幕料私領共巡邏厳重取締可仕旨被 仰付置元徳川領代官山内源七郎近年支配所那須郡塩谷郡芳賀郡其他鉎丸領知之境界相接居京師ヨリ追々被 仰出候御布令書御趣意之趣厚相守候様精々申諭巡邏取締罷在候得共前書被 仰出候諸帳面類取調方鉎丸ヘ申出候村々御座候間取調御役所ヘ差出可申哉左候得者民情ニモ相叶奉 命之一端ト奉存候間此段奉伺候以上

                                   大田原鉎丸(勝清)使者
   閏四月二十七日                              阿久津新五郎
   (附紙)
  伺之通
(「栃木県史料八一」)

「大田原藩取締方御用手控」によれば、宇都宮鎮撫府より次のような通達が出されている。
 
下総野鎮撫ノ儀当府ヨリ一切致管轄候儀ハ勿論ニ候ヘ共広漠之土地柄手々難及儀モ可有之ニ付各藩領内取締向ノ儀ハ不乃申御料並旗本ノ采地迄凡郡分ヲ以取締向最寄藩々ヘ被仰付儀ニ候乃テハ一藩ヨリ重臣壱人士分壱人名前差出シ相成鎮撫御用筋其人ノ受持ニテ取計相成候様且当府ヨリ不時廻郡諸事可致差配之儀モ可有之旁々趣可被相心得候事

 これらによって、当時の新政府は戊辰戦争の渦中にあって、天領・旗本領の民政・公事・訴訟・税賦らの取締をもよりの藩へ委託したことが知れる。のちにこれらの預領の村々は藩領と同様に取扱うよう通達が出されている(「大田原藩取締方御用手控」)。市域村々のうち天領の村であった鹿畑、旗本知行所の村々のうち上奥沢・奥沢・堀米・久保・乙連沢・小滝・桜井・平林・刈切・大和久・川下・荻野目などが、大田原藩取締取扱い村々として現在までに判明した所である。
 
  一、取締巡村出役左ノ通
   取締掛リ原田半蔵 同郡奉行程島貢 同代官相山羊三
   下 役与五郎 郷同心吉五郎 郷使円八 足軽五人 組小銃為持 物持弐人
  一、七月廿六日(明治元年)朝出宅奥沢村直通り鹿畑村名主新右エ門宅昼休村調左ノ通
        御料下野国那須郡鹿畑村
  一、高弐百八拾弐石五斗四升
  一、家数弐拾軒
  一、人別百弐拾七人
     内 七拾壱人男
       五拾六人女
  一、鉄炮八挺内弐挺ハ玉目三匁六分
         六挺ハ 〃三匁五分
    新右エ門、与右エ門、治右エ門、長右エ門、市右エ門、清左エ門、六右エ門、五左エ門
   右之通ニ御座候以上
    慶応四辰年七月 百姓代五左エ門
            □頭 清左エ門
            名主 新右エ門
                      (以下略)
   取締方大田原様御役所
(「大田原藩取締方御用手控」)

 このように、市域内の村々の天領・旗本知行所は、なんらかの形でもよりの藩へ取締りを依頼されたのである。しかし、宇都宮に鎮撫府が移されると、これらの村々の民政筋取扱いはすべて鎮撫府へ伺いを出して取締る方向へと変更されたのである(「大田原藩取締方御用手控」)。

鹿畑村歴史編修取調書
(阿久津モト氏蔵)

 日光県の村々は新政府の支配する所であるが、政権の成立地である京都、新しい都とした東京での新政府による布令をそのまま村々へ通達したにすぎないようである。当時おしすすめた政策の最大のものは、戊辰以来の治安対策を第一としていることが知られる。
 京都より命令の写が残されているので次に示す。
 
諸国之高札是迄之分一切取除□□□別紙之条々掲示被仰付候自然風雨ノ為字章等淡レ滅シ候節ハ速ニ調整可申候事(以下略)

  第一札
   一、人たるもの五倫の道を正しくすべき事
   一、鱞寡孤独廃疾のものを憫むべき事
   一、人を殺し家を焼き財を盗等之悪業あるましき事
     慶応四年三月 太政官
 
  第二札
何事によらずよろしからざる事に大勢申合るを徒党と唱へ徒党して強ひて願ひ事企るを強訴と云ひ或は申合せ居町居村を立退候をてうさんと申し堅く御法度たり若右類の儀これあらば早々其筋の役所へ申出たし御褒美下さるへく候事

     慶応四年三月  太政官
 
  第三札
きりしたん邪宗門之儀ハ堅く御制禁たり若不審なるもの有之ハ其筋乃役所へ申出たし御褒美下さるべく候事

     慶応四年三月  太政官
(以下略)

(「大田原藩取締方御用手控」)

これらの内容をみても、基本的に封建社会の高札とかわっていないことが知られる。