栃木県には、栃木県の直接の前身である日光県、七月十四日の廃藩置県を経て壬生・吹上・佐野・足利・館林県が合併されたのである。宇都宮県には旧来の宇都宮・烏山・黒羽・大田原・茂木などの諸県が合併し、新たに宇都宮県と称したのである。この宇都宮県が栃木県に合併するのは明治六年六月十五日である。
版籍奉還で土地・人民は奉還されても、藩主が藩知事として治めているので藩主と領民との関係は以前と変りなく、形式上において封建制度を廃止したのであるが、廃藩置県では封建制度を廃止することになり、版籍奉還と廃藩置県は、維新政府が「百事御一新」を唱える中でも、最も大きな変革であった。これによって維新政府は国内統一を完成したといわれている。
今般関八州群馬県ヲ除クノ外並伊豆国従来之府県被廃夫々左ノ通府県被置候事
今般廃府県ノ官員追テ御沙汰候迄新置府県知事令参事差図ヲ更従前ノ庁ニ於テ事務可取扱事
栃木県
下野国
足利郡、簗田郡、寒川郡、安蘇郡、都賀郡
上野国
邑楽郡、新田郡、山田郡
宇都宮県
芳賀郡、塩谷郡、那須郡、河内郡
右之通府県被置候ニ付廃府県従前管轄之地所当年(明治四年)ヨリ物成郷村等夫々ヘ可引渡事
辛未十一月 太政官
(「大田原藩取締方御用手控」)
廃藩置県で、四県を併合した宇都宮県は、栃木県とともに、現在の栃木県を二分する大県となったのである。
上級官吏は他県出身者で占められ、最初に県参事に任命された山口県士族三吉周亮は、四年十一月十四日から同月二十五日のわずか一一日の在任、ついで、同県士族の小幡高政が、十一月二十五日、少議官より本県参事として赴任し、明治六年二月十日小倉県参事となり転任。その後は、栃木県令鍋島貞幹が宇都宮県令を兼任し、宇都宮県廃止以後も県令として前後一三年在任し、特に佐賀鍋島閥が形成されることになるのである。
県庁は、四年十一月、旧宇都宮城内の旧県の仮庁をもって、新県庁と定めた。翌五年一月には、旧黒羽県庁跡に支庁(出張所)設置の許可願を出して許可されたが、本庁と出張所の往復の不便を理由とし、同年八月二日廃止された。なお庁舎狭小につき新築される間、一時仮庁舎は宇都宮西原町安養寺に移されたが、同年八月、宇都宮城の外郭内朝議台、梅ケ岡に新庁舎が建設されたのである。
事務分掌は庶務・聴訟・租税・出納の四課である。参事小幡高政以下権参事岩村高俊(東京)・七等出任小野修一郎(高知)・典事藤田諒蔵(茨城)・大属梁瀬昌幸・若目田久庫(宇都宮)・権大属大久保文隣(宇都宮)・少属・権少属・一三等出仕・史生・県掌・一五等出仕・等外一・二・三・四等・捕亡吏などの職格に分けられた一一一名の職員によって運営されている(「栃木県史 史料編・近現代一」)。
成立当時の宇都宮県の支配地をみると次のようになっている。
石高四十一万石余
戸数四万二千六十四戸
人口二十三万四千百二十四人
(「地方沿革略譜」、「栃木県史 史料編・近現代一」)
宇都宮県管轄地で大田原市に関するところを記すと次のとおりである。
旧黒羽県(本庁那須郡黒羽旧郭内ニアリ)羽田、北金丸、南金丸
旧大田原県(本庁那須郡大田原旧郭内ニアリ)刈切、川下、赤瀬、平林、荻野目、上奥沢、奥沢新田、今泉、小滝、堀米、乙連沢、久保、戸野内、船山、岡、寺方、松原、竹野内、吉際、荒井、町島、中田原、七軒町、沼野袋、五倫塚、原町、西戸野内、下石上、上石上、大田原宿
旧日光県所管 大神、鷹巣、中居、八木沢、練貫、市野沢、鹿畑、福原、三色手、青木、若目田、岡和久、宇田川、小種島、倉骨、桜井、奥沢、薄葉、藤沢、平沢、滝沢、上沼、滝野沢、佐久山宿
(「栃木県史 史料編・近現代一」)
大田原県の記録には、宇都宮県への併合について次のように記録されている。
十一月十三日関東七国ノ府県一旦悉ク之ヲ廃セラレ而シテ更ニ府県ノ新置アリ此時宇都宮県ヲ置カレ我旧県ノ如キハ則チ其所管ニ帰セラレ於是本年ノ物成郷村及ヒ文書等明年正月五日ヲ以テ同県ニ交付ス而シテ其他百般ノ事務ハ其七月ニ至リテ全ク交付ヲ終ハルト云
(「栃木県史附録」)
次に、旧大田原藩士の手記が残っているので記す。
同年(四年)十一月太政官ヨリ下野国芳賀塩谷那須河内ノ四郡ニアル諸県ヲ廃シ更ニ宇都宮県ヲ置カレ従前之地所当未年ヨリ物成郷村等新県ヘ可引渡旨ノ御布達アリ同明治五年一月九日旧大田原県諸官員退職更ニ士族卒取締二名投票公撰ヲ以撰挙シ尓後久シク取締二名ノ指揮ヲ受ケ且ツ当時ヨリ人心更ニ一変シ士民ノ別ナク各自主独立ノ勢ニ趣キ我
皇国ノ人民タル権利ヲ保有スルヲ得ルニ至ル豈ニ無涯ノ幸福ト云ハザル可ンヤ
(阿久津モト文書)
廃藩置県による宇都宮県の成立は、今までの大田原藩を解体し、その延長上に存在していた大田原県を廃止することによって、初めて大田原市域を中央集権国家の一地域として、行政的に統一することになったのである。旧大田原藩士の生活も一応四民平等となり、錯綜した領主支配による諸事務の煩わしさから逃れられることになったのである。