廃藩置県の際、藩知事は家禄と明治新政府が新設した華族の身分が保障され、藩士にも家禄が支給された。ただし、家禄や華族は決して無条件で与えられたのではなく、次の交換条件が付けられたのである。
一、支配地の総高、物産及び人口を届け出ること。
二、藩知事の家禄を一〇分の一とする。
三、藩士はすべて士族とし、給禄を適宜に改革すべきこと。
藩知事の家禄を一〇分の一に減らされれば、藩士の家禄もかなり減らさなければならないことになる。廃藩置県によって家禄の支出は政府から出ることになったが、その総額は国庫歳出の三分の一にもあたるほどの巨額にのぼった。当時の藩主家禄は九〇余万石、士民寺社の分が六五〇万石、計七百数十万石の年額支出となるのである。
大田原士族卒禄高は、明治四年(一八七一)九月大田原県の調査によれば、次のようであった。
十一石二斗五升 二五人 士族
九石 三一人 〃
七石二斗 三九人 〃
五石四斗 三六人 〃
一石八斗 二二人 〃
三石六斗 五〇人 卒
二石七斗 四人 〃
一石八斗 五人 〃
合計
一、二七四石八斗五升 二、一二人
(「竜城今昔」第三号)
元高 四、七一〇石、改高 一、二七四石八斗五升を秩禄の支出高としたのは、維新当時におけるわが藩の官制改革その他により減額したからであったのである。
家禄奉還は、明治三年十一月七日、高知藩が藩制改革により禄制を廃止したことに始められたのであるが、政府はこれを許して一時賜金制を行った。しかし希望者も少なく、また転職も思うようでなかったので、四年十二月、士族・卒の農商に帰する者に、禄高五年分を支給する制は廃止したのである。けれども六年一月政府は徴兵制を施行したので、武士階級は完全に失業者となった。それで政府の責任が重大となったので、再び家禄奉還許可令を同年十二月制定するに至った。
家禄・賞典禄百石未満の者で奉還を願う者には、産業資金として永世禄六か年分、終身禄は四か年分を半分現金、半分を公債証書で渡した。しかし政府については秩禄の負担は過重だったので、八年九月には秩禄が米であったものを金禄に改め、十二月家禄所有者に三割三分の高税を課した。このために生活難に苦しんだ下級武士は公債証書を他に譲渡し、その権利すら棄てるものもあった。そこで九年八月政府は強制的に奉還を命じ、金禄公債証書発行条令を発して、一五年後より毎年元金償還と定めた。当時全国で公債証書を支給されたものは、三一万三千人、士族総数の四分の三、総額一億七千万円であった。旧大名と公卿一人当り平均額が六万円、一方、受給人員の八三・七パーセントにあたる下級武士は、一人当りわずか四一五円の平均額である(「家禄の整理と士族の動向」後藤靖)。一般士族のうけとった額は極めて少なく、ながくその生活を維持するには足りなったのである。
明治十年東京での最低日給賃金は二二銭、下級士族の四五円という公債の年利子は二九円五〇銭、日割にすると約八銭であるから、下級士族層が生活困難におちいったことは当然である。
家禄の奉還をして金禄公債を持った士族は、好むと好まざるとにかかわらず、官吏・教員・巡査などになり、あるいは帰農・帰商した。一部の者は明治政府や民間にあって指導者となったりしたが、全体の数からみれば、僅かにすぎない。従来の借金のために、新しい生活の道が立たないために、公債はかれらの手を離れて高利貸商人の手に集められたり、帰商したもののなかには、武士の商法・士族の商法のたとえにもれず、やがては失敗に陥り、路頭に迷うものもあり、あるいは無産労働者と化したのである。政府はその救済策として、士族授産政策の授産金貸与や、官有地低額払下による開墾の奨励を行ったが、失敗した者も少なくなかった。しかし巨額の家禄を持つ旧領主の華族たちは、これによって多くの金禄公債所有者となり、資金を手にして資本家に転化することができたのである。
明治天皇、明治九年東北御巡幸の際、栃木県令鍋島幹が天皇に県下の実情を申し上げた「栃木県令の奉答」(「栃木県聖跡志」)には次のように記されている。
旧幕府の所領八万石余なり、全管草高九十六万石余、人口六十五万余、貫属士族の数、凡三千七百戸、此内僅かに就産の目的あるは、大田原と足利のみ、其の大田原は農を業とし、足利は商を営まんとするにあり、其の他は更に目的あるを見ず。
とある。
明治十六年の栃木県士族の就産状況をみると、
一農 千六十人
一商 三百四十五人
一農商兼業 六十六人
一工業 百六十九人
一養蚕 一人
一医 五十五人
一銀行株式 二百人
一諸会社株主 九人
一力役 百二十六人
一雑業 百五十九人
一官吏及小学校教員 二百四十三人
一無職業 百三十五人
合計 二千五百六十八人
(「栃木県史 史料編・近現代一」)
しかし、事実においては、不平士族は根を絶たず、政治革新行動へと移行してゆく者も多くいたのである。
旧大田原藩士族の上級士族達は、明治六年十二月の家禄奉還の際、旧県吏の誤解により、藩士の禄高に錯誤不足額があったので、それらを支給されるよう明治三十一年六月、大蔵大臣井上馨に「家禄錯誤不足額御給与願」書を提出している(阿久津モト文書)ので記すと、
家禄錯誤不足額御給与願
栃木県士族
旧大田原県
儀衛(旧名新五郎)跡相続
旧名金雄
阿久津脩斉
参百石余
永高拾五貫壱文 此四ツ物成
現石六拾石ヨ
内
拾壱石弐斗五升 明治八年三月奉還受取
一現石四拾八石七斗五升 錯誤ニ付今回
但永世禄 更ニ出願之高
一金参千四百七拾九円参拾壱銭八厘
但給与未済ニ付今回出願之分
内訳
金参千四拾六円六拾五銭七厘
但明治六年十二月太政官第四百廿五号布告ニヨリ奉還ノ際現石六拾石トスベキヲ錯誤ノタメ拾壱石弐斗五升分給与ヲ乞ヘタルニ付即チ不足額四拾八石七斗五升分ヲ明治三十年十月法律第五拾号第一条及ヒ仝第三条ニヨリ平均額ヲ金六円四拾銭九厘八毛ト仮定シ換算ス
金四百参拾弐円六拾六銭壱厘
但明治三十年十月法律第五拾号第二条明治六年十二月太政官第四百廿五号布告ニヨリ明治八年十二月奉還明治六年十二月太政官第四百廿六号ニヨリ給与ノ処第五拾号法律第一条ニヨリ明治九年八月太政官第百八号布告第一条ニ基キ拾壱石弐斗五升ヲ残年数六ケ年分仝第三条ニヨリ平均額ヲ金六円四拾銭九厘八毛ト仮定シ換算ス
右者明治三十年十月法律第五拾号第一条ニヨリ家禄ノ錯誤ニ係ル給与ノ未済額及第二条ニヨリタル給与ノ不足額共前記之通リ併テ御給与被成下其禄高錯誤ノ理由ハ明治三年九月十日太政官布告藩制施行以後旧藩主大田原富清之判物ニヨリ家禄ヲ有シ来リ候抑旧大田原藩禄高ノ制ハ百石ヲ永高五貫文トシ此ノ四ツ物成現石弐拾石トシ年々給与シタル者ニ有之然ルニ明治四年七月廿四日禄高ニ関スル太政官御布告ニヨリ調査ノ際旧県吏(明治四年廃藩大田原ト称ス)従来ノ藩債及ヒ士族禄高調等携帯宇都宮県ニ出頭大蔵省出張官員ヘ差出候際藩債多額ナル理由御尋問アリ且ツ小藩ニシテ士族ノ禄何百石ト云フハ甚タ多額ニシテ不都合ナルノミナラズ旧藩主スラ封士奉還現石十分之一ノ家禄ト改正セラレタルニ単リ士族ニシテ本禄高ヲ有スルハ過当ニ付減シテ取調候方可然トノ指図ニ依リ旧県吏驚愕ノ余リ直ニ帰庁シ当時借上ト称シ百石以上ノ家禄ヲ有シタル者従来拾八九名ヲ総テ現石拾壱石弐斗五升(藩ノ廩米廿五俵壱俵四斗五升入)ノ給与トナシ藩債消却ノタメ一時救急ノ策ヲ以テ当分減給シタルノ調書差出シ併テ減給相成候右ハ当分ノ事ニシテ財政整理ノ上ハ素ヨリ本禄ニ引直シ候趣之処幾バクモナクシテ新県ニ其儘引継相成候右等ハ全ク旧県吏ノ誤解ヨリ粗漏ニ出候儀ニ有之候然ルニ其后明治六年十二月太政官第四百廿五号布告ニヨリ奉還ニ際シ前記ノ禄高ヲ以テ奉還出願スベキハ当然之処御布告ノ趣旨不了解等ニテ旧県吏ノ錯誤ニ出テタル石高ヲ以テ奉還ヲ出願シ遂ニ栃木県ヨリ其調ニ依リ給与ヲ受ケ候次第ニ有之又曩ニ奉願ニ対シテハ六ケ年分御給与之処明治九年第百八号御布告ニヨレバ十二ケ年分ヲ下賜相成彼是権衡ヲ不得今回第五拾号法律ニヨリ併テ御給与奉願依義ニ有之依テ別紙甲第一号証甲第二号証乙第一号証乙第二号証及ヒ新旧戸籍ノ謄本相添ヘ此段奉願候也
明治三十一年六月 日
栃木県下野国那須郡大田原町大字大田原百廿七番地居住
栃木県士族
阿久津脩斉
大蔵大臣伯爵 井上馨殿
のごとく、士族解体のための家禄奉還、秩禄処分が明治六年から九年にかけて行われたのである。なお、士族の商法といわれながらも成功した旧大田原藩士の例を、履歴書の実例をあげて次に記す。
履歴書
一氏名 阿久津正
一住所 大田原宿五百三十一番地
一族籍 栃木県士族
一職業 商業
一年齢 三十二年五ケ月
一履歴 旧大田原藩士阿久津忠義五男ニシテ兄又次郎明治元戊辰ノ役戦死ス藩主其功ヲ賞シ一戸設立シ其跡ヲ続カシム、明治八年家禄ヲ奉還シ以来商業ニ志アリ商家ニ就テ親シク本業ノ得失ヲ熟知シ明治十六年初メテ当宿五百四十一番地ヲ借請ケ金物店ヲ開キ引続キ借家織物及古着等ノ商業ヲ営ミ追々繁盛ニ趣キ明治十九年中当宿五百三十一番地ニ宅地及ヒ家屋倉庫等ヲ買請修繕ヲ加ヘ当時雇人七名アリ専ラ諸品ヲ廉価ニ売捌キ益々繁栄ニ至リ明治廿年仝郡三島村ヘ支店ヲ開キ頗ル勉励ノ者ニシテ目下地租金拾弐円以上ヲ納メ殊ニ所得税等モ納ムル者ナリ
(大田原・第九)