地方三新法

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明治六年(一八七三)六月、宇都宮県を廃して栃木県に合併し、ほぼ今日の県域が確定し、大小区制による地方行政が行われたが、明治政府は、同十年代になると、地方制度の再編成に着手し、統一的地方制度の確立を図ったのである。
 これが「三新法」制定となって実現したのである。三新法とは、同十一年(一八七八)七月に制定された「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」を総称するもので「地方三新法」と呼ばれ、地方自治制が整備されてゆく過程に一つの時期を画しているのである。何度かの改定を繰り返して存続してきた大小区制は、三法の布告によって終ったのである。この間約六年間、民会設立、学制発布、徴兵令の布告、地租改正などが行われたのであった。
 ここで郡区町村編制法は従来の大小区画にかわって、行政単位を江戸時代と同じように郡・町・村と変えたのである。これにより各地の村々は行政村として復活し、やがてこれらの町や村は合併し、新しい町村が成立する明治二十二年(一八八九)四月一日の町村制へと移行するのである。郡区町村編制法は今までの大区・小区制を廃して、府県知事・県令の下に郡・郡長、町村・戸長をおき、その名称も旧来のものを復活させることを目的としたものである。
 府県会規則では、府県に公選議員から成る府県会を設けて民会要求をある程度認めながら、地方財政の円滑な運営をめざした。一方地方税規則はその収入確保を裏づけるものである。
 地方三新法の時代は、明治の草創期を終えて、地方自治制の確立期に至るという次の時代までの渡り廊下的位置を示している時代である。