明治十一年の郡区町村編制法では、毎町村に戸長一員を置くこととし、また数町村に一員を置くことをも認めているが、しかし同十三年の甲第一号「町村会規則」の段階では、戸数僅少の村々においても隣村との連合を認めず、県は単独の村会の開設の指示をしているのである。しかし、実際には連合町村会が開催されていたようである。次に記すは、大田原宿外四か村の町村会開催についての伺書である。
町村会之儀ニ付伺
大田原宿外四ケ村
戸長役場
本年当県甲第一号ヲ以テ御布達相成候町村会規則之儀ハ、毎町村ニ一箇ノ会場ヲ設ケ其町村人員ノ多寡ニ従ヒ議員ノ数ヲ定ム可キノ処、当役場部内大田原宿ハ人員三千四百四十余人ニ付議員三十人ヲ撰挙スルヲ得ルト雖トモ荻野目村ハ人員七十余人、刈切村モ七十余人、北大和久村ハ三十余人、赤瀬村ハ二十人弱ニ付四ケ村トモ戸数十戸内外ノ村落ニテ一村毎戸主議員ニ挙ルモ僅々三人乃至六人ニ付毎村ニ会場ハ設ケ難シ、然リト雖トモ役場協議費ヲ議スルニ当リ、会議ノ意見ヲ問フトキ部内宿村ノ内ニ議員無ケレハ賦課法相立タス、学校費ヲ議スルニ小学区内宿村議員ノ意見ヲ問フモ又然リ、之ニ因リ大田原宿ヲ除ク外一村ニ付一人ノ議員ヲ撰挙シ、或ハ北大和久村ト赤瀬村トヲ組合セ一人ノ議員ヲ撰挙シ、部内宿村議員連合シテ役場費ヲ議決シ又小学区内宿村議員連合シテ学費ヲ議決スル等ハ大田原宿ニ一箇ノ会場ヲ設ケ町村会ヲ開クモノトシ、部内村々ヨリ議員ヲ撰挙為致可然哉、此段相伺候也
戸長
明治十三年三月十一日 西海石邦三
栃木県那須郡長 藤田吉亨殿
(大田原・第八四)
これに対して、那須郡長は次のように回答してきたのである。
(朱書)
書面伺之趣毎宿村開会候儀ト可相心得候事
明治十三年三月十一日
栃木県那須郡長 藤田吉亨
(大田原・第八四)
すなわち、一村ごとに町村会を開催すべきであるとしたのである。
のち同年四月、太政官布告第一八号を以て「区町村会法」が公布され、甲第一号を以て町村会規則を制定した。本県では、区町村法の公布で甲第一号は消滅し、区町村法第二条の規定により「規則ハ其区町村ノ便宜ニ従ヒ、之ヲ取設ケ」ることとなり、各町村で自主的に作成されることになったのである。
こうして各町村に町村会が開設されていったのであるが、明治十六年(一八八三)二月時点における栃木県下の開設町村は一、一八三か町村、未開設町村は七五か村となっている。なお市域での町村会の開設状況は不明である。
次に記すは大田原宿における町村会の報告書である。
町村会開未開ノ町村及議員(明治十六年十二月三十一日現在)
大田原宿 戸長役場
町村数 五(大田原宿、苅切村、荻の目村、北大和久村、赤瀬村)
開 大田原宿
未開 荻の目村、苅切村、北大和久村、赤瀬村
会類 町村会
議員 定員十名、現員十名
被撰挙権アルモノ 三五〇人
撰挙権アルモノ 六〇〇人
(大田原・第八七)
なお明治十九年(一八八六)二月現在の大田原宿における戸長及び宿会議員は次のとおりである。
戸長 山崎章
宿会議員 北城直諒、土屋重善、益子甚四郎、川上直吉、田代太郎三郎、川上利一、高藤利貫、加勢熊次郎
以上 八名
(大田原・第四五)