連合戸長区域

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明治十一年(一八七八)の郡区町村編制法では、毎町村に戸長一員を置くこととし、また数町村に戸長一員を置くことをも認めたのであるが、同十二年五月、栃木県布達による「戸長役場の設置」(乙第一一八号)及び「公撰戸長ト選挙規則」(乙第一一九号)によって、各町村に戸長役場の設置が布達され、これらによって、大田原宿外四か村の戸長役場が成立したのであった。次に記すは「戸長役場」の届書である。
 
       戸長役場位置届
                 那須郡
           役場位置      大田原宿
                     荻野目村
                     刈切村
                     北大和久村
                     赤瀬村
  右五ケ村宿連合之上戸長役場位置大田宿と相定候旨此段御届申上候也
   明治十二年七月九日
                                     右戸長 西海石邦三
   栃木県令 鍋島幹殿
(大田原・第八六)

 このようにして、新栃木県の成立に伴って成立した大区小区制に代って、公選による「戸長」と「戸長役場」が、各地区の実情に応じて設立され、許可されたのであった。市域においては、大田原宿戸長役場を始めとして、親園・滝沢・滝岡・宇田川・中田原・倉骨・佐久山・福原・上石上・薄葉等に戸長役場が置かれたのである。しかし、自由民権運動の先頭に町村会議員や県会議員のほかに公選された戸長等が目立ったため、栃木県では同十六年一月、「戸長公撰ノ件廃止」(甲第二号)を布達し、戸長の官選制に切り替えたのである。改正の理由は、戸長が「軽躁詭激ノ徒ヲ挙ケ政党ノ組織ヲナスヲ企ツルニアリ」(「栃木県史 史料編・近現代一」)と「戸長一員ヲ公撰ノ件等廃止、改革理由書」は記している。

佐久山宿戸長役場印


大田原宿戸長役場印


中田原村戸長役場印


親園村戸長役場印

 同十六年三月、戸長官選化直後、戸長役場管轄区域を拡大し、数町村からなる「連合戸長役場」が県下一円に設置されたのである。栃木県における連合戸長制が実際に行われるのは同十八年(一八八五)三月一日からである。このとき統合された連合戸長役場の位置とその区域は次のとおりである。
 
  乙第十六号
従前ノ戸長役場ヲ廃シ更ニ戸長役場配置其所轄ノ区域別冊之通相定メ来ル三月一日ヨリ施行候条此旨布達候事

   明治十八年二月十三日 栃木県令 樺山資雄
大田原宿 大田原宿・十八年二月第二十一号ヲ以テ追加那須野村
親園村  親園村・滝沢村・実取村・滝岡村・大神村・福原村・花園村・荻ノ目村・刈切村・宇田川村
佐久山宿 佐久山宿・藤沢村・薄葉村・平沢村・沢村(矢板市)
三島村  上石上村・下石上村
練貫村  練貫村・富池村・羽田村・乙連沢村、越堀・鍋掛・野間各村(黒磯市)、蜂巣・余瀬・桧木沢・寒井各村(黒羽町)
中田原村 中田原村・市ノ沢村・上奥沢村・倉骨村・赤瀬村・奥沢村・北金丸村・北大和久村・町島村・南金丸村・荒井村・小滝村・鹿畑村
東小屋村 戸野内村・岡村・今泉村
下河戸村 成田村・豊田村(旧野崎村)

(「明治一八年戸長役場位置」 県立図書館所蔵)

となっている。数町村からなる連合戸長役場が県下一円に設置されたのであるが、各町村は指令どおり実施したのであろうか、残された史料によれば、そうとは思われない点があるので次に記す。
 
    区画御改正之義ニ付願
                                       那須郡
                                          刈切村
今般戸長役場区画御改正ノ御達ヲ拝承仕候処自村ノ義ハ大田原戸長役場部内ヲ分離シ親園村戸長役場部内中ヘ編入相成候得共自村ハ至テ小村ニシテ西北ハ大田原宿ヘ接続罷在小学校等ノ義モ連合相成居将タ水陸田ノ如キ大田原宿地内ノ越石モ然□加ルニ自村ヨリ大田原宿戸長役場迄ハ僅カ二十丁ニ過スシテ親園村戸長役場迄ハ大田原宿地内並ニ荻野目村ヲ経テ親園村ニ達スル里程既ニ一里内外ニ及ヒ何分人民ノ不弁不尠ノミナラス前陳学校費其他諸費等大田原宿戸長役場ヘモ上納仕リ猶親園村戸長役場ヘ地租其他諸費上納仕リ候義ニシテ弁理上必至難渋仕候間何卒特別ノ御詮議ヲ以テ大田原戸長役場部内中ヘ据置ノ義御聞届相成下度此段連署ヲ以テ奉願上候 以上

                                      右村
                               明治十八年二月  増渕民次郎
                                        増渕源一郎
                                        槐兼治
                                        桜岡笹一郎
                                        桜岡利平
                                        桜岡初太郎
                                        渡辺十郎
                                        桜岡重次郎
                                        桜岡市蔵
                                 戸長(大田原宿外四ケ村)
                                     阿久津修斉
   栃木県令 樺山資雄殿
 
(増渕清一 文書)

 このように、かなりの住民の抵抗があったようで、親園連合戸長役場の管轄下に入っても刈切村は、一村を上げて大田原宿へ合併を陳情しているのである。しかし、最終的には県指令どおり実施され、すべての町村で町村会と連合町村会の設立がみられたわけである。
 栃木県における連合町村は、明治十六年二月と同十八年三月の時点の二段階を経て成立するのである。
 町村制は郡区町村制をさらに整備したものであるが、その町村制施行(明治二十二年四月)に移行するための準備として、連合町村制が行われたのである。