つい一〇〇年前までは荒涼とした不毛の地であったが、明治九年(一八七六)時の有志佐久山の印南丈作、矢板の矢板武の二名は、この地の開墾の議を起し、同十二年(一八七九)伊藤博文・松方正義の来原を見、翌十三年開墾社創立。同十一年開墾に着手、同十五年飲用水路開通、同十七年に至って移住民一〇〇人を数えるに至って、同年二月初めて「那須野村」を設立したのである。この那須野村が今日の西那須野町の原点である。
開墾社が創立されて以来、村民の行政事務は大田原宿戸長役場が一切取り扱っていたが、明治二十二年(一八八九)町村制の施行によって、西那須野村が成立するに至り、大田原宿戸長役場より独立したのである。
これより先明治十七年(一八八四)二月新村設置により、栃木県管内那須郡役所の直轄となり、同十八年三月改めて大田原宿外一か村戸長役場の管理に属したのである。これらについて史料には次のように記されている。
乙第十六号
従前ノ戸長役場ヲ廃シ更ニ戸長役場配置其所轄ノ区域別冊之通相定メ来リ三月一日ヨリ施行候条此旨布達候事
明治十八年二月十三日
栃木県令 樺山資雄
那須郡戸長役場位置 大田原宿
所轄町村名 大田原宿
十八年二月第二十一号ヲ以テ追加那須野村
(「明治一八年戸長役場位置」 県立図書館所蔵)
このような経過を経て成立した那須野村であったが、財政的には町村会の費用負担の分担金をも支払える状態ではなかったのであり、次に記す文書はこれらを如実に物語ってくれる。
戸数割賦課免除ノ義ニ付上請
当所轄那須野村ハ客年二月御新置相成尓来戸数次第ニ増加シ現今四十有余戸ニ至ルモ概シテ小屋掛ノ類ニシテ全ク雨露ヲ凌キ候迄ニ止リ相応ノ家屋ヲ有スルモノ僅ニ五七戸ニ過キス加フルニ営業者等モ無之一家挙テ開墾ニ従事シ日夜黽(ママ)勉スルモ糊口ニ苦ミ否モスレハ離散スルモ難計勢ニテ実ニ憫然ノ義ニ付客年已来町村費賦課ノ免除ノ義ヲ町村会ニ諮問シ則其評決ヲ取リ是迄免除致来候場合ニテ十九年度地方税中戸数割ノ義モ目下ノ実況ニテハ負担ニ堪ヘ難キモノト思料候間格別ノ御詮議ヲ以テ当分ノ内免除アランコトヲ謹テ上請候也
那須郡大田原宿外一ケ村
明治十九年三月二日 戸長 山崎章
栃木県令 樺山資雄殿
(大田原・第四五)
このように記されている。
一方、町村会開設については次のように記されている。
町村会開設スルヲ得サル儀ニ付上申
当所轄那須野村ノ儀ハ客年二月新設相成候村落ニテ十七年五月第十四号公布区町村会法第十条ノ資格ヲ有スル(地租納税者)無之ニ付該会ヲ開設スルヲ得サル儀ト思料候条此段開申候也
那須郡大田原宿外一ケ村
明治十九年三月三日 戸長 山崎章
栃木県令 樺山資雄殿
(大田原・第四五)
と記され、町村会開設するのに必要な村民の地租納税者の資格を有する者としての該当者がないので、開設することができないと報告されている。また、同十九年(一八八六)度の那須郡第一番学区教育費賦課徴収法議案(大田原・第四五)第一〇条には「那須野村ハ凡テ賦課ヲ除ク」と条文に組み入れられているのである。これらの賦課方法は、地価割・営業割・戸別割の三種で、各町村の負担額を定め、各町村において町村会の評決により、各戸負担額を定めているものであるが、移住者の困難な事業の実状を見るに忍びず、正租の免除、鍬下年限(向二〇年)中の各移住民に対する地方税の免除の処置が取られるのである。
明治二十一年(一八八八)那須野村
人口 四四六人
戸数 一一一戸
(大田原・第四九)