三新法体制下の郡制

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厳密な意味での「郡制」とは、明治二十三年(一八九〇)、府県制・郡制に基づいて設置され、大正十二年(一九二三)の廃止に至るまでの地方自治体制を意味するものである。この間、「郡」は「府県」・「郡」・「町村」の三段階の一つの地方自治体系として設置されていたわけである。
 しかし、この郡制施行にいたるまでには、さまざまな地方制度の整備・改廃が行われていた。いわゆる「地方三新法」がこれである。明治十一年(一八七八)四月、政府は第二回地方官会議を召集し、三新法などを審議した後、同年七月、太政官布告をもって、「郡区町村編成法」・「府県会規則」および「地方税規則」などを定めた。これにより、従来行われていた大区小区制をやめ、行政区画としての郡・町村を復活し、別に「人民輻輳」の地を区として、郡・区長・戸長を置くようになったのである。
 これにより、栃木県では、同年十一月支庁・大小区を廃し、新たに郡役所を設置し、郡長を任命している。那須郡では、大田原駅(宿)に郡役所を開設し、大田原の藤田吉亨を郡長に任じたのである。
  乙第二七四号
                                           各区
  第十七号公布ニ依リ各支庁及各大小区ヲ廃シ、更ニ左ノ通郡役所ヲ設置候条此旨布達候事
   但各事務所ノ儀ハ追テ相達候迄都テ従前ノ通タルヘシ
   明治十一年十一月八日
       栃木県令    鍋島幹
      (中略)
  一 那須郡役所 位置   大田原駅
     所管那須郡一円
(「栃木県史 史料編・近現代一」)

 ここに、大田原支庁は閉庁となり、大小区が廃され、新たに大田原駅に那須郡役所が開庁、行政区画としての那須郡が成立したわけである。