近代日本の地方制度は、大日本帝国憲法の公布(明治二十二年、一八八九)に相前後して行われた、市制町村制および府県制郡制の制定と、その後の整備補正を経て、同三十二年(一八九九)ごろに完成したといわれている。いうまでもなく、これは明治維新以来の地方制度に関するさまざまな施策の終着であり、最終的には地方の最末端に至るまでを、中央集権的統一国家に組み入れる作業の完成でもあったのである。
明治二十一年(一八八八)、市制・町村制公布後、地方制度編纂委員会は府県制郡制法案を内閣に提出、これをもとに元老院での審議を経て、同二十三年(一八九〇)府県制郡制を公布した。これによると、郡制施行の時期は町村制の施行後に、府県制は郡制・市制の施行後に、内務大臣が決定することになっている(「近代日本総合年表」岩波書店、以下「岩波年表」と略記する)。
これにより栃木県では、同三十年(一八九七)七月一日より郡制を施行することになったのである。
秘乙第三一三号
栃木県ニ本年七月一日ヨリ郡制ヲ施行スルコトニ定メタリ
右報告ス
明治三十年六月七日
内務大臣伯爵 樺山資紀 印
内閣総理大臣臨時代理
枢密院議長 伯爵 黒田清隆殿
栃木県告示 第一六六号
明治三十年七月一日ヨリ本県ニ郡制ヲ施行セラル
明治三十年六月九日
栃木県知事 江木千之
(「栃木県史 史料編・近現代二」)
これにより郡長は、郡制施行に伴う諸問題の協議のために、各町村長を七月六日に召集しているのである。
第六七号
各町村長
郡制施行ニ付協議ヲ要スル件有之候条来ル六日午前八時出衙ス可シ
但シ郡制ヲ携帯ス可シ
明治三十年七月一日
栃木県那須郡長 坂部教宜 印
(「栃木県史 史料編・近現代二」)
行政区画としての那須郡は、町村制施行により、従来の町村を分合し、新たにその区域を定め、七町二三村とし、これが郡制施行によって、一個の自治体として認められたのである。のち、明治四十五年(一九一二)四月一日、東那須野村より黒磯町が分離独立したために八町二三村となったのである。