本県で郡制施行の後も、郡制についての改正は何回かあった(明治三十二年三月十六日、改制郡制)。そして、明治三十九年には、政府は郡制廃止法案を議会に提出、結局衆議院では可決、貴族院では審議未了となった。翌年、政府は再度提出したが貴族院で否決されたのである(「岩波年表」)。
郡制が町村制とは異なった性格を有することは既述のとおりである。郡会を設置し、さまざまな議決を行ったことは自治体的な性格を認めることができよう。しかし、郡長の郡会に対する支配権は強く、郡はあくまでも中央集権国家の最末端機構ということができよう。一方で郡には課税権がなく、郡の必要とする経費はすべて郡内各町村の分賦負担によっていた。そのため、自治体としての制約を受け、各町村のなかには負担の公平ということで、異論を唱えるものすらもあったのである(「郡制史」)。
そうしたなかで、明治末期から大正初期にかけて、全国各地に郡制廃止の議が交わされるようになった(「栃木県史 史料編・近現代三」)。特に、第一次世界大戦以後のいわゆる大正デモクラシーの中で、資本主義の発達に伴う諸矛盾が、地方自治制にも影響し、町村の自治権の拡大と、不況の中での経費節減の声から、政府は郡制廃止の方向で研究をすすめ、ついに大正十年(一九二一)郡制廃止法が公布され、同十二年(一九二三)四月一日、これが施行され、郡長・郡役所は国の行政機関となったのである。これにより、自治団体としての郡制は消滅し、ついで大正十五年、勅令により郡役所も廃止されたのである。
それで、那須郡においても郡道は県道として県の管理に移管し、郡債・郡育英資金の整理を行い、郡立高等女学校をはじめ郡有財産を処分し、大正十二年三月三十一日をもって郡制が廃止されたのである。