行政の強化

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明治三十七、八年(一九〇四~五)の日露戦争は、役場の徴兵事務を一層繁雑なものとしていった。また戦争遂行に必要な戦費の調達のための国債の割当募集も、役場を通じて行われたのである。同三十八年三月十五日の第四回国庫債券募集予定額調べによると、大田原町は三〇、〇〇〇円、親園村は三、八〇〇円、野崎村は四、〇〇〇円、佐久山町は五、〇〇〇円、金田村は五、五〇〇円で合計四八、三〇〇円となり、那須郡の約二〇パーセントを占めていたのである。第一回から第三回の国庫債券応募額が七五六、八九七円であったから、その約二〇パーセントに当る約一五〇、〇〇〇円が募集されたとみると、第四回の応募額と合せて、約一九〇、〇〇〇円が国に流れたのである。同三十三年の大田原市域の二町三村の町村税が、約一四、〇〇〇円であるから、実に一四倍もの金額が租税外の税として徴収されたのである。次に記すのは国庫債券応募の例である。
 
   第三回国庫債券応募者報告
         金田村大字今泉
  一金二拾五円也   塚原春吉
  一金二拾五円也   角田常吉
  一金二拾五円也   岸初太郎
  一金二拾五円也   岸新次郎
   右及報告候也
    明治三十七年十月二十七日
                                       区長 秋元倉吾
  金田村長代理助役 斎藤英林殿
(金田・第五一)

 このように区長を通じて行われる募集に応じられたのは、町村の有産者や富農層であったのであろう。一般庶民に対しては戦時増税賦課法によって増税が課せられていくのである。同三十七年五月十六日の金田村会議事録は次のように記している。
   明治三十七年度歳入予算更正ノ件
  議長、第六款村税地価割ニツキ審議アラレタシ
  一番、地租金一円ニ付三十銭ヲ二十銭ト更正シタシ、而シテ拾銭ヲ戸別ニ賦課シタシ
  四番 小会議ニ付セラレタシ
     十番、四番、十二番何レモ同之シテ
  議長、小会ノ必要ヲ認メ小会議ニ付ス
   本議ニ復シ
  一番 修正地租割一円ニ付金二十銭トシ而シテ不足ノ分ハ戸別割ニ当テ
     一戸平均額三円〇七銭ナシタシ
  満場 異議ナシ
  議長 採決
(金田・第二二一)

 このような増税に対し、一般庶民のなかには、税を納めることのできない者が多くみられたのである。
 
村税ハ(中略)納期間ニ完納スルモノ半分ニ充タズ、為メニ各区長ヘ納付督励書面ヲ発シ、之ヲシテ督促セシメテ而シテ後、吏員ヲ出張セシメ区長同伴ニテ怠納人ノ居宅ニ至リ徴収セシムル、数回ニシテ完納スル者アリ、又督促令状ヲ発布シ財産差押ヲナス等シテ完納セシムルモノアリ、稀シハ財産ノ公売処分ヲ遂行セシムルモノアリ(以下略)

(金田・第二二一)

 したがって、役場の徴税事務も一段と増大していったのである。
 このような役場事務量の増大に伴って、それまで借屋で町村事務をとっていた役場は、近代的建物にする必要に迫られ、金田村では同四十二年村債で建物を購入し、佐久山町では町債で役場を新築しているのである。そして同四十年代には、「貧民児童学資補助規程」(金田村)、「金田村納税奨励規約」、「佐久山公告式条例」といったものがつくられ、行政がスムーズに施行されるように整備されていくのである。
 さらに、大正時代に入ると、このような行政の強化は一段と進められ、大正デモクラシーの風潮が高まると、「金田村会傍聴人取締規則」(大正六年十二月十八日制定)を設けたり、米騒動にみられた貧しい庶民を救うために、「親園村罹災救助資金蓄積条例」(大正十二年二月二十一日制定)などが施行されたりしたのである。