一、大田原町ニ於テハ四十五年度前期県税戸数割ニ於テ、納期内納入シタルモノ千四百余戸ノ内僅ニ六百余戸ニシテ、八百余戸ノ滞納者ヲ出タシ、営業税ノ如キ亦之ニ準ジ、随テ県税町税ノ滞納所分ニ於テ非常ニ困難ヲ感ジツツアリ
一、同町民ニシテ従来一回一円以上ツヽノ白米ヲ購ヒタリシモノ五十銭若クハ二十銭ツヽトシ、而カモ其ノ幾分ハ稗ヲ混合シテ買フモノ多ク、最近ニ於テハ僅ニ五銭ヲ以テ白米及稗ヲ購ハントスルモノアリシモ之ヲ秤量スルニ由ナク巳ムヲ得ス五銭ニ対スル白米ト外ニ一掬ノ稗トヲ与ヘタリシト
一、実況既ニ右ノ如クニシテ少資本ノ白米商ノ如キハ其営業ヲ継続スル能ハズ休業同様ノ状態ニ在ルモノ少カラズ、需要者ノ窮状見ルニ忍ビザルモノアリ、同町役場ニ於テハ之ガ救済ノ一方法トシテ近ク一車(約五十石)ノ外米ヲ購入シ需メニ応ジテ原価ヲ以テ之ヲ頒ツコトトシ昨今其準備中ニ在リ
一般ノ状況ハ以上記スルガ如クナルモ、………唯タ最近調査ニ於テ大田原[尋常高等]小学校在籍児童千百余人中、生活困難ノ為昼食ヲ携帯セズ若クハ欠席セリト認ムルモノ尋常科ニ於テ十二名ニ過ギズ、而カモ其多数児童ノ食糧ハ麦稗ヲ混セサルナク稀ニ純白粉ノ昼食ヲ携帯スルモノアレバ却ツテ他ニ容レラレサルノ感アルモノノ如ク、現ニ大田原町某資産家ノ児女家ニ帰リテ他生ハ多ク黒キ弁当ヲ持チ行クニ自分独リ白キ弁当ヲ持参スルハ如何ノ故カ、是非黒キ弁当ニ改メ呉レヨト、而シテ其所謂黒キ弁当ナルモノハ即チ稗ヲ混ジタルモノナリト(以下略)
(「栃木県史 史料編・近現代八」)
このような状況下にあって、時代は明治から大正へと変ったのである。人々は大正天皇の御即位を喜び、新時代の到来を期待した。時あたかも第一次世界大戦が始まり、好景気になってきた。そこで社会の進むべき道を示したのが、「町村是」である。これは同四年(一九一五)十一月十日の大正天皇御即位大典記念として、各町村で制定され、翌年二月十一日神社に奉告されている。大田原町の町村是から抜粋してみると次のようである。
大田原町(大正五年二月七日制定同年二月十一日奉告)
一、堆肥ノ普及ヲ図ルコト
一、規約貯金ノ実行(町長監督)
一、青年団ノ奨励(勤倹貯蓄、心身修養)
一、実業補習学校ノ普及
一、敬神崇祖
一、会合時間ノ確守
一、公ノ饗宴ハ質素ニシテ酒杯献酬ノ禁止
一、小学校生徒絹布着用ノ禁止
一、下水浚渫ヲ完全ニスルコト
一、火葬場ノ設置
一、基本財産ノ増殖
一、納税組合ノ設置
(「栃木県町村是実行要目」栃木県立図書館所蔵)
野崎村村是
その成果について、金田村を例にあげて記すと、およそ次のようである。すなわち、金田村是の中に「租税公課ノ皆納」というのがあるが、この点については、同八年二月二十五日の村会で、村長渡辺六郎は、同七年事務報告書として次のように報告している。
既往五ケ年ニ渉レル世界的大動乱モ、殆ト終局ヲ告ゲ今ヤ漸ク平和ノ曙光ヲ見ントスルニ至レリ、此ノ時ニ当リ茲ニ立法部諸賢ト相会シ、次年度予算ノ審議ヲ乞ヒ本村福利ノ増進ヲ図ルヲ得ルハ本職ノ最モ欣幸トスル処ナリ
惟フニ本村自治ノ実況タルヤ外名誉職各位ノ援護ト内吏員ノ誠実業ニ服スルトニヨリ、逐次向上発展シ教育ニ勧業ニ敢テ他町村ニ遜色ナキニ至レルヲ確信スルモノナリ、殊ニ納税ノ成績ニ至リテハ、本年度国税納期内完納ノ故ヲ以テ税務監督局長ノ表彰スル処トナレリ、コレ本年農産物ノ価格上騰シ、経済状態ノ順調ナルニヨルナルベシト雖モ一ツニハ村民ノ納税義務観念向上ト見ルヲ得ベシ、然レドモ村税ニ至リテハ、未タ一部ニハ多少ノ未納者アルヲ免レザルハ実ニ遺憾トスル処ナリ、此ノ点ニ就テハ、一段ノ督励ト努力トヲ要ベキモノアリ、一般事務ニ至リテハ、頻年庶務劇増セルガ故ニ処理進行上尚一層ノ研究ト奮励トヲ要スベキモノ多シ、以下各項ニ渉リ本年度内ニ於ケル事務ノ概要ヲ報告セントス(以下略)
(金田・第三七)
すなわち、種々の成果の上ったことを示しているのである。また、金田村是の中に「敬神崇祖」があるが、これについても、次のように記してその成果を報告している。
一、社寺
指定神社外無格社共ニ祈年祭、例祭及新嘗祭ヲ執行シ指定神社ニ対シ奉リテハ祭典当日供進使ノ参向学校生徒及氏子並村民ノ参拝、入営営兵ニ対スル奉告式ヲ執行シ敬神崇拝ノ観念ヲ向上セシメツツアリ
(金田・第一四)
第一次世界大戦が終って、戦後恐慌が起り経済は再び不況へと移った。この時期、第二次町村是が実施されるのである。「大正十一年庶務書類綴・大田原町役場」(大田原・第八八)はその実施方法について詳細な記録を残している。
それによると、大田原町長若林五郎平は、県の指示に従って、町長・助役・学校長・神主・僧侶・農会長・町会議員からなる第二期町是制定評議委員会をつくり、同十年十一月八日大田原小学校講堂で町是制定の評議委員会を開いたのである。そこで町是が決められ、町内の第一区(大久保町)から第二二区(富士山下)までの実行委員が決められたのである。そして、十一月二十三日午前一〇時町長以下実行委員参列のもと大田原神社において、第二期大田原町是制定奉告祭が行われたのである。「第二期大田原町是」の内容は、「一、民力ノ充実ヲ図ルコト、二、教育ノ進歩ヲ図ルコト、三、風俗ノ改良ヲ図ルコト、四、健康ノ増進ヲ図ルコト、五、自治興隆ヲ図ルコト」の五つの柱よりなっていた。
続いて同年十二月六日には那須郡役所庶務課長名で町村是実行組合設置の指令が届いた。これに基づき、各区長は大田原町役場に参集し、「町是実行組合規程」を作成した。この規程によって各区には実行組合がつくられ、町是が一般に励行されるようになっていったのである。