第七節 戦時体制下の行政

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 昭和十二年七月七日夜、北京郊外蘆溝橋で日中軍の衝突があり、日中戦争は新たな段階に突入した(北支事変の勃発)。政府は、既に諸外国の態度などから戦局の長期化を見通し、国の将来の前途多難に対応すべく、政界・財界・言論界等の各代表を招請して、挙国一致の強力な体制への協力を要請したのである。
 一方、政府は国民精神総動員運動を起こし、その具体化を図り、総動員計画実施要綱を決定した。それによれば、
 ○国民精神総動員実施
1時局認識 2報徳道の普及 3生産拡充(農業、工鉱、生産力の充実) 4生活刷新(物資節約、廃品回収) 5貯蓄奨励

 ○興亜奉公日設定 毎月一日
 ○銃後後援会強調週間
 ○銃後婦人会の自粛自戒 等々
となっている。
 すでに、昭和十一年には「国家総動員法」が発令され、勅令で人間や物資を戦争に動員できるという体制を整えていたが、この国民精神総動員運動によって、思想面からの統制の徹底を期したのであった。
 戦時体制が拡大するに従い、政府・軍部の一方的な命令・統制だけでは、戦争遂行は不十分であるとの認識に立ち、昭和十五年十月十五日、大政翼賛会を発足させたのである。
 
曩ニ結成セラレタル大政翼賛会ノ本旨ニ則リ、本村民亦新時代ニ覚醒シ、臣道実践ニ挺身シ、以テ翼賛政治体制ノ建設ニ努ム可ク、茲ニ大政翼賛会金田村支部ヲ結成致度、革新ノ意気盛ナル諸賢ノ御協カヲ乞ヒ、創意ト能力ヲ最高度ニ発揮シ以テ尽忠報国ノ誠ヲ致サントスル。

(金田・第二一九)

 つまり、大政翼賛会町村支部の結成である。
 また、昭和十六年三月二十八日付で、金田南[尋常高等]小学校は、宇都宮陸軍飛行学校金丸分教所の飛行演習に支障あるの故を以って、同年十二月中に移転を命ぜられるのである(金田・第一〇三)。
 昭和十七年七月には地方事務所(現 那須庁舎)が設置され、県と地方の連絡、知事の補助機関として、戦争遂行の協力推進と円滑な運営指導に当ったのである。戦争が長期化すると、食糧の絶対数量の確保、米穀、麦類をはじめ各種食糧増産の計画割当、配給、軍事物資需給関係、労務需給管理、各種物資・資材等の統制・調整・配給など、地方事務所は仕事の量が増大し、これらの処理に追われていったのである(第9表)。
第9表 配給概要
(昭和一九年)
衣料切符交付人員
第一種六、〇二二枚
第二種三、六一一枚
特(姙、婚賄等八七八枚
農林水産用労働着生地
紺織一六九反
丸紡三六六反
五九反
既製品ズボン一八一枚
シャツ三三枚
補修用布一九貫
一般用ネル七九二切
一、三七五切
肌着類
大人用シャツ三四三枚
小供用シャツ三五〇枚
大人用ズボン下二〇四枚
大人用パンツ三〇二枚
大人用ズロース二〇〇枚
甲又一〇八枚
腰巻一五一枚
足袋類
白大人用三、一七三足
更生紺大人用二、七九五足
二八四足
地下足袋五九一足
軍手四八五双
手拭八二五本
タオール三一三枚
縫糸六三貫四八〇匁
主要食糧配給
一般人員一四、三三二人
生産者一二、四一一人
穀類
精米一、二七二石
六石
精麦三七七俵
其の他
干麺八二、八〇四箱
小麦粉二四四袋
甘藷六二九俵
酒類(冠婚葬祭用)
一〇石三斗
一般家庭用麦酒一、三四五本
米穀供出表彰用六石二斗四升
味噌類
要配給人一、〇九五人
要配給量二、九〇二貫
醤油類
要配給人八、五六〇人
配給量四〇六石六斗
雑品類
燐寸並型二、三五〇個
〃 大型二、一〇〇個
〃 小型三、一七〇個
石ケン類
浴用六、〇一七個
洗濯用九、四八八個
食油類九七缶
下駄類
下駄八、五五〇足
鼻緒一、八九〇足
其の他
生鮮、魚介、塩、魚佃煮等配給

 この地方機関は、極めて中央集権的、官治制の色彩の強いもので、自治とは名ばかりで、上意下達の機関となった。
 戦争が激化するにつれて、強制的に町村所有の物資をはじめ、個人所有の物資も供出させられた。大田原の由緒ある記念品である「時鐘」と「金灯籠」が供出させられたのもこの時である。
 「昭和十九年金田村の事務報告」をみると、太平洋戦争中における配給、農産物の供出など、個人の生活は規制され、戦争への一致協力の体制をうかがうことができる。
 
◎米麦ノ供出
麦類予想高  三二、四六八俵 本村割当  二四、〇三四俵
以上ノ供出ヲナシ優秀ナル成績ヲ示シタリ
米ノ予想高  二六、三三七石 本村割当高  五二、三三〇俵
現在僅カナガラ供出未了ノ状況ニアリ
 馬鈴藷甘藷ハ何レモ割当ノ数量ヲ完納シ責務ヲ果サントセルモ各種ノ事情ヨリ完遂出来得ザリシヲ遺憾トス
 軍用干草ノ供出及緊急薪供出ニ於テハ村民各位ノ熱誠ナル努力ニヨリ各関係筋ヨリ感謝セラレタリ
 旱害対策ニ就テハ昨年中五拾余台ノ揚水設備新設ニヨリ現在百二十五台ノ揚水設備完成シ尚二十年度ニ於テモ約二十台ヲ新設ノ見込ナルニヨリ之ニテ大体ノ旱抜地帯ハ解消トナル見込ナリ

(金田・第一〇八)

 戦争の末期に至り、金丸原飛行場の整備が急務となり、近隣の関係町村へ勤労報国隊編成依頼が、那須地方事務所長・大田原警察署長・川西警察署長・那須郡支部長等から出された。各町村はいずれも手弁当で、かなりの人数が動員されているのである。これらのことについては、別章「戦争と市民生活」に詳しいので省略する。
 国家総動員法による戦時体制は、「決戦下栃木県政運営大綱」の制定となり、県の五大重点施策も掲げられた。それは、①食糧増産 ②軍需増産 ③防空強化 ④軍事援助 ⑤貯蓄増強 の五つであった(昭和十九年「部落会町内会長手びき」益子孝治所蔵)。具体的には、三大作興運動の「健兵栃木ノ建設」「発明栃木ノ建設」、「航空栃木ノ建設」を含め、次の項目に示されるような内容となっている。
 
  秋の食糧増産に就て
  国民貯蓄増強に就て
  軍事援護に就て
  防空に就て
  軍需増産に就て
  健兵栃木の建設に就て
  発明栃木の建設に就て
  航空栃木の建設に就て
(「部落会町内会長手びき」)

 太平洋戦争も昭和十九年六月ころになると、アメリカ軍機の空襲が熾烈となり、戦局は一段と悪化した。政府は決戦段階に対処し、国内防衛体制強化のため、国政運営要項の趣旨により、帝都、そして重要都市に強力な防空都市を構成することになり、人員・建物等の緊急疎開を実施することになった。直接受入側の町村は、実行本部長に町村長が就任し、大政翼賛会・同壮年団は積極的に協力し、疎開先の住居・食糧・配給物資等に不自由をきたさないよう、「都市疎開実施要領」によって、実施に当った。
 また、昭和十八年三月十八日に「決戦教育措置要綱」が発令され、「国民学校初等科ヲ除キ学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ同二十一年三月三十一日ニ至ル間原則トシテ之ヲ停止スル」ということになり、学徒動員が行われた。戦局は一段と悪化し、B29の攻撃が増してくると、政府は学童疎開を促進することになった。学童の疎開は縁故先への疎開を奨励し、縁故先のない者は、集団疎開の方法をとったのである(第三編社会第五編教育参照)。
第10表 大田原市関係疎開児童
学寮名児童数職傭員数学寮長所在地宿舎
3年4年5年6年職員寮母作業員
花園第1寮4641411
渡辺ナミ
13田口勝親園村花園長泉寺
三輪文雄
36413
花園第2寮51171113佐藤ゆき子親園村花園民家
福原覚次
5117
宇田川寮445131113黒沢農夫親園村宇田川成就院
63615
慈雲寮6546212226横山雄吉佐久山町実相院
577726
勢喜屋寮2224101113中村妙子佐久山町旅館
342413
二葉寮5267201225村田利夫佐久山町民家
554620
福原寮48814342327江井十郎佐久山町福原金剛寿院
656926
以上は湯島国民学校
全超寺学寮175222125野崎村上石上全超寺
1214
以上は千駄木国民学校
妙徳寺学寮795212125宇名公恭金田村小滝妙徳寺
881127
成就院学寮238132114中西金太郎金田村富池成就院
斉藤隆典
28414
以上は元町国民学校
(「疎開記録」)

 昭和二十年に入ると、本土空襲はいよいよ激しくなり、当然、大田原市域へも及んだ。
 ここに、終戦直前の八月十三日に金田南国民学校が焼失したときの、金田村の採った善後処理の記録があるので、次に記す。
 
   昭和二十年八月十三日
                                      金田村長 室井要
  村会議員殿
    村会急施召集ノ件
  左記事件ニ付急施ヲ要シ八月十四日午前九時金田村南青年学校ニ村会ヲ召集ス
  右及告知候也
    左記
   一、金田南国民学校戦災ニ付善後処置ニ関スル件
(金田・第一〇八)

 この校舎は、昭和二十三年十一月に起工し、同二十四年七月二十日に竣工している。
 また、戦時中空襲による罹災者援護に関しては、同二十年十一月二十五日に村会で議決され、直ちに栃木県知事に報告され、罹災者に対して村長より援護金が渡されたのである。
   村内戦災者援護金の支出の件
  一金  百円也  津久井貞之助
  一金 五拾円也  津久井駒吉
  一金 五拾円也  古内鋼
  一金 五拾円也  新江清
(金田・第一〇八)