太平洋戦争後の市町村合併は、明治二十二年の市制及び町村制施行時における合併以来の、我が国地方行政の大きな課題であり、各市町村にとっても長い伝統と歴史をもつ町村の統廃合であって、住民の旧町村に対する愛着も強く、また新しく生まれる町村についての危惧や不安もあり、合併までには幾多困難な条件も加わり、慎重な検討と協議とが必要であったのである。以下は、その合併促進法制定施行に至るまでの経緯と状況である。
町村合併の問題は、アメリカのシャウプ税制視察団の日本政府への勧告が、一つの動機となったようであるが、国においても、地方行政調査会が市町村優先の原則と複雑かつ広域化する行政事務と、多様化する住民の需要を能率的に処理するためには、小規模町村では到底不可能であり、その規模を強化かつ合理化するよう勧告してきた。このような情勢のもとに、町村合併の気運は昭和二十五年ころから急速に高まってきたのである。
かくして昭和二十八年九月全国町村会・全国町村議長会等の提唱に基づき、参議院地方行政委員会の共同提案という形で、町村合併を実現する上における障害の除去と、合併後の新町村の育成とを目途として、「町村合併促進法」が提案され、同年八月八日国会を通過、九月一日法律第二五八号として公布、同年十月一日から施行された。同法は同三十一年九月三十日までの三か年の時限立法であるが、制定後も必要に応じて改定が加えられてきたのである。
政府は同法に基づき、次のような町村合併促進の基本計画を定めた。
すなわち同二十八年九月一日現在における人口八、〇〇〇人未満の町村八、二四五のうち、一、五〇〇町村は、市または人口八、〇〇〇人以上の町村に合併し、六、三三二町村は平均四か町村で相互に合併して一、五八三町村とすることにあった。その結果当時において総数九、六二二町村を三年間におよそ三分の一に減じて三、三七三町村にする計画であったのである(「昭和二九年度大田原市合併関係綴No.1」・昭二九・一・二一栃木県総務部長通牒「町村合併の促進対策について」・「町村合併基本方針」(昭和二十八年十二月十八日閣議決定))。
なお、政府は九月十一日総理府内に町村合併推進本部を設置し、町村合併基本方針を決定した。